18世紀のアジアの経済と社会
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「歴史総合」B (2) ア (ア) の「18世紀のアジアや日本における生産と流通,アジア各地域間やアジア諸国と欧米諸国の貿易などを基に,18世紀のアジアの経済と社会を理解すること」。
内容の取扱いは、欧米諸国がアジアの文物に関心を寄せていたことにも触れるよう求めています。日本の対外関係と琉球・アイヌは 江戸時代の対外関係と琉球・アイヌ で扱います。
0. 何を押さえるか
18 世紀の世界で、豊かさの中心はむしろアジアにありました。清とムガル帝国は大きな人口と高い手工業の力を持ち、
茶・絹・陶磁器・綿布などのアジアの文物を、ヨーロッパは欲しがる側でした。
ヨーロッパには売れる品が乏しかったので、その代金はアメリカ大陸で掘られた銀で払われました。
| 地域 | 生産と流通の特徴 | 欧米諸国の貿易との関わり |
|---|---|---|
| 清 | 茶・生糸・絹織物・陶磁器。人口が大きく増え、税は銀で納める | ヨーロッパ船との貿易を広州 1 港に限り、公行が独占 |
| ムガル帝国(インド) | 綿布(手織り)の一大産地 | イギリス・フランスの東インド会社が進出。プラッシーの戦いの後、イギリスが優位に |
| 東南アジア | 香辛料・米。中国出身の商人・移民(華僑)が交易を担う | オランダがジャワなどを拠点にする |
| 日本 | 輸入品の国産化が進む。長崎から銅や俵物を輸出 | 長崎でオランダ・中国と交易 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 18 世紀のアジア各地域間の交易は、ヨーロッパ船だけでなく中国のジャンク船などアジアの商人が大きく担っていた
- 清が貿易を広州に限ったのは、欧米に負けて開かされたのではなく、清の側が管理のために決めたこと(開港を強いられるのは 19 世紀のアヘン戦争から)
- 18 世紀の日本は、金銀の流出を抑えるため輸入を減らし国産化を進める方向だった
1. 清の繁栄と広州での貿易
根拠: 学習指導要領 歴史総合-B-(2)-ア-(ア)
清は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の時代(17 世紀後半〜18 世紀末)に最盛期を迎えます。
ヨーロッパとの貿易は、清の皇帝が「恩恵として許してやる」形で、場所と相手を絞って管理されていました。
1757 年、清がヨーロッパ船との貿易を限った港は?
広州
乾隆帝の時代。この体制はアヘン戦争後の南京条約で開港が広がるまで続いた。
広州で、ヨーロッパ商人との貿易を独占した清の特許商人の組合を何という?
公行(コホン)
ヨーロッパ商人は公行を通さなければ取引できず、自由な貿易を求める不満がたまった。
18 世紀、イギリスは清から大量の茶を買った。その代金を何で支払ったか?
銀
イギリスには清で売れる品が乏しく、銀が一方的に清へ流れた。これを取り戻そうとしたのが、のちのアヘンの密輸である。
18 世紀の清で広まった、人頭税を土地税に繰り入れ、まとめて銀で納めさせる税制を何という?
地丁銀制
外国との貿易で流れ込んだ銀が、清の国内でも広く使われていたことを示す。
1793 年、貿易の拡大を求めて清に派遣されたが、乾隆帝に要求を退けられたイギリスの使節は?
マカートニー
清は、自国には何でもあり外国の品を必要としないとして、対等な通商を認めなかった。
2. インドと東南アジア
根拠: 学習指導要領 歴史総合-B-(2)-ア-(ア)
ムガル帝国のインドは、世界有数の綿布の産地でした。18 世紀に皇帝の力が弱まると、
イギリスとフランスの東インド会社が、各地の勢力を味方につけて争うようになります。
18 世紀、ムガル帝国のインドからヨーロッパへ大量に輸出され、人気を集めた手工業製品は?
綿布(手織りの綿織物)
インド綿布の人気が、イギリスで綿布を自国で作ろうとする動きを生み、のちの産業革命につながった。
1757 年、イギリス東インド会社がフランスとベンガル太守の軍を破り、インド支配の足場を築いた戦いは?
プラッシーの戦い
イギリスはこの勝利を足がかりに、1765 年にはベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を手に入れ、商社から領土を支配する存在へと変わっていく。
18 世紀の東南アジアの港町に移り住み、交易や鉱山開発を担った中国出身の人々を何という?
華僑
アジア各地域間の交易は、ヨーロッパ船だけでなく、こうしたアジアの商人の網の目によって支えられていた。
3. アジアの文物とヨーロッパ
根拠: 学習指導要領 歴史総合-B-(2)-ア-(ア)
茶・絹・陶磁器・漆器などアジアの文物は、ヨーロッパの王侯・貴族の間で珍重されました。
まねて作ろうとする努力が、ヨーロッパの技術を伸ばすきっかけにもなります。
17〜18 世紀のヨーロッパで流行した、中国の陶磁器・絹・庭園などを好み、まねる趣味を何という?
シノワズリ(中国趣味)
宮殿の内装や家具、庭園にまで中国風の意匠が取り入れられた。
オランダ東インド会社が、日本の長崎からヨーロッパへ運んで人気を得た磁器は?
伊万里焼(肥前の有田焼。伊万里港から積み出された)
中国の磁器が手に入りにくくなった時期に、代わりとして多く輸出された。
中国や日本の磁器をまねて、18 世紀の初めにヨーロッパで初めて本格的な磁器を焼き始めたドイツの窯は?
マイセン
ザクセンの君主の保護のもとで作られた。アジアの文物が、ヨーロッパの技術の手本だったことを示す。
4. 18世紀の日本の生産と流通
根拠: 学習指導要領 歴史総合-B-(2)-ア-(ア)
17 世紀の日本は、生糸などの輸入の代金として多くの金銀を海外へ出していました。
18 世紀になると、幕府は輸入を抑え、それまで輸入に頼っていた品を国内で作る方向に切り替えます。
1715 年、長崎に来る清・オランダの船の数と取引額を制限し、金銀の流出を抑えようとした法令は?
海舶互市新例(正徳新令)
新井白石が進めた。
18 世紀前半、朝鮮人参やサトウキビなど、輸入品の国内での栽培を奨励した将軍は?
徳川吉宗
享保の改革の一環。生糸・木綿・砂糖などの国産化が進み、日本の生産と流通のしくみが変わっていった。
18 世紀後半、長崎から清への輸出品として幕府が生産を奨励した、干しあわび・いりこ・ふかひれを俵に詰めた海産物を何という?
俵物
銅とともに、金銀に代わる輸出品として清へ送られた。