満州事変から日中戦争へ
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「歴史総合」C (3) ア (ア) の「世界恐慌,ファシズムの伸張,日本の対外政策などを基に,国際協調体制の動揺を理解すること」のうち、日本の対外政策を扱います。
内容の取扱いは、日本の政治体制や対外政策の変化と、当時の政治制度の特性に触れるよう求めています。
満州事変の始まりと満州国の承認、国際連盟の脱退は 2026-09-27 に国立国会図書館「史料にみる日本の近代」(満洲事変)と突き合わせました。
0. 何を押さえるか
1920 年代の日本は、ワシントン体制のもとで国際協調と政党内閣の時代にありました。世界恐慌で経済が行き詰まると、
軍部は大陸での勢力拡大に活路を求め、満州事変から日中戦争へと戦線を広げていきます。
その過程で日本は国際連盟を脱退し、軍縮条約からも離れました。日本の動きは、ドイツ・イタリアとともに国際協調体制の動揺を招いた大きな要因です。
| 年 | 対外政策 | 国内の政治 |
|---|---|---|
| 1931 | 柳条湖事件、満州事変が始まる | |
| 1932 | 満州国の建国 | 五・一五事件で政党内閣が途絶える |
| 1933 | 国際連盟からの脱退を通告 | |
| 1936 | 日独防共協定。軍縮条約が失効 | 二・二六事件。軍部大臣現役武官制の復活 |
| 1937 | 盧溝橋事件、日中戦争が始まる | |
| 1938 | 近衛声明「国民政府を対手とせず」 | 国家総動員法 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 五・一五事件(1932 年)は海軍の青年将校らが犬養毅首相を殺害し、二・二六事件(1936 年)は陸軍の青年将校が起こした。政党内閣が途絶えたのは五・一五事件のあと
- 国際連盟の脱退は、総会が満州国を認めない勧告を採択したため。リットン調査団の報告そのものに反発して即座に脱退したのではない
- 日中戦争は宣戦布告をしないまま全面戦争になった。日本政府は当初「事変」と呼んだ
1. 満州事変と国際連盟の脱退
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(3)-ア-(ア)
中国では国民政府による統一が進み、日本が持つ満州の権益を取り戻そうとする動きが強まっていました。
満州の権益を守る関東軍は、これを武力で覆そうとしました。政府は不拡大の方針をとりましたが、軍の行動を抑えられませんでした。
1931 年、奉天郊外で南満州鉄道の線路が爆破され、満州事変の発端となった事件は?
柳条湖事件
関東軍が自ら爆破しながら中国軍のしわざとして軍事行動を始めた、関東軍将校による謀略だった。
関東軍が満州の主要地域を占領したのち、1932 年に建てられた国は?
満州国(清の最後の皇帝であった溥儀を執政とした)
実権は関東軍と日本人の官吏が握っており、日本の傀儡国家だった。日本は同年に満州国を承認した。
中国の訴えを受けて、国際連盟が満州事変の実情を調べるために送った調査団は?
リットン調査団
報告書は日本の軍事行動を正当な自衛と認めず、満州国も住民の自発的な独立運動による国とは認めなかった。
日本が 1933 年に国際連盟からの脱退を通告したのは、連盟総会で何が採択されたためか?
満州国を認めず、日本軍の撤退を求める勧告
日本の代表は総会の場から退場し、日本は国際社会の中で孤立を深めた。
2. 政党政治の終わりと軍部の台頭
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(3)-ア-(ア)
対外政策の変化は、国内の政治体制の変化と結びついていました。
大日本帝国憲法のもとでは、内閣の外に軍が独自に動ける余地があり、政党内閣が途絶えると軍部の発言力が一気に強まります。
1932 年、海軍の青年将校らが首相官邸を襲い、犬養毅首相を殺害した事件は?
五・一五事件
これで政党の総裁が首相となる政党内閣は途絶え、戦後まで復活しなかった。
1936 年、陸軍の青年将校が部隊を率いて首相官邸などを襲い、大臣らを殺害した事件は?
二・二六事件
高橋是清蔵相らが殺害された。反乱は鎮圧されたが、その後は陸軍が政治への発言力をいっそう強めた。
大日本帝国憲法のもとで、軍の作戦や用兵の指揮は天皇に直属し、内閣も議会も関与できないとされた原則を何という?
統帥権の独立
内閣が軍の行動を抑えにくい、当時の政治制度の特性の 1 つ。1930 年のロンドン海軍軍縮条約の調印では、これを犯したとして政府が攻撃された(統帥権干犯問題)。
陸軍大臣・海軍大臣を現役の大将・中将に限る制度で、1936 年の広田弘毅内閣が復活させたものは?
軍部大臣現役武官制
軍が大臣を出さなければ内閣が作れず、倒すこともできるので、軍が内閣を左右する手段になった。
3. 国際協調体制からの離脱と日中戦争
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(3)-ア-(ア)
日本はワシントン体制のもとでの軍縮からも離れ、同じく国際連盟を脱退したドイツに近づいていきます。
1937 年には中国との全面戦争に入りました。日本軍は同年末に首都南京を占領し、その際に捕虜や住民を多数殺害しました(南京事件)。犠牲者の数は研究者の間で見解が大きく分かれています。
日本が 1934 年に廃棄を通告し、1936 年に失効した、主力艦の保有を制限していた条約は?
ワシントン海軍軍縮条約
同じ年にロンドン海軍軍縮会議からも脱退し、日本は軍縮の枠組みから離れた。
1936 年、共産主義の国際組織(コミンテルン)に対抗するため、日本がドイツと結んだ協定は?
日独防共協定
翌 1937 年にイタリアも加わった。のちの日独伊三国同盟につながる。
1937 年 7 月、北京郊外で日中両軍が衝突し、日中戦争の発端となった事件は?
盧溝橋事件
戦火は華北から上海へと広がり、宣戦布告のないまま全面戦争になった。
日中戦争が始まったのち、中国国民党と中国共産党が内戦をやめて日本に対して協力した体制を何という?
第二次国共合作(抗日民族統一戦線)
国民政府は首都を南京から武漢、さらに重慶へ移して抗戦を続けた。
1938 年、近衛文麿首相が出した、中国の国民政府を交渉相手にしないという声明の言葉は?
「国民政府を対手とせず」
和平の道を自ら閉ざし、戦争は長期化した。同年末には東アジアの新秩序(東亜新秩序)の建設を戦争の目的として掲げた。
1938 年に制定された、政府が議会の承認なしに人や物資を戦争のために動員できるようにした法律は?
国家総動員法
総力戦の体制づくりで、賃金や物価、労働力の配置まで勅令で統制できるようになった。