大正デモクラシーと政党政治
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「歴史総合」C (2) ア (イ) の「大衆の政治参加と女性の地位向上,大正デモクラシーと政党政治……などを基に,大衆社会の形成と社会運動の広がりを理解すること」のうち、
政治の側を扱います。内容の取扱いは、世論の影響力が高まる中で民主主義的風潮が形成され、日本において議会政治に基づく政党内閣制が機能するようになったことに触れるよう求めています。
原内閣の成立・米騒動・普通選挙法と治安維持法の成立については、2026-09-27 に国立国会図書館の電子展示「史料にみる日本の近代」(第 3 章 大正デモクラシー、3-13 男子普通選挙法の成立と治安維持法)と突き合わせました。
0. 何を押さえるか
大正デモクラシーは、大正時代(1912〜1926 年)を中心に広がった、政治や社会の民主化を求める風潮です。
民衆が集会や新聞を通じて政治を動かすようになり(大衆の政治参加)、衆議院の多数党が内閣をつくる政党政治が定着しました。
| 年 | できごと | 何が変わったか |
|---|---|---|
| 1913 | 第一次護憲運動で桂内閣が倒れる(大正政変) | 民衆の運動が初めて内閣を倒した |
| 1918 | 米騒動のあと原敬内閣が成立 | 初の本格的な政党内閣 |
| 1924 | 第二次護憲運動で加藤高明内閣が成立 | ここから政党内閣が続く |
| 1925 | 普通選挙法と治安維持法 | 男性の普通選挙と、社会主義運動の取り締まり |
| 1932 | 五・一五事件で犬養毅首相が暗殺される | 政党内閣が途絶える |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 1925 年の普通選挙は男性だけ。女性の参政権が認められたのは第二次世界大戦後(1945 年)
- 普通選挙法と治安維持法は同じ年につくられた。選挙権を広げることと、社会主義運動を取り締まることが組になっている
- 原敬は普通選挙に慎重だった。原内閣は選挙権の納税資格を引き下げたが、普通選挙の実現は加藤高明内閣である
1. 民本主義と護憲運動
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(イ)
日露戦争後、講和条約への不満から起きた日比谷焼打ち事件のように、民衆が政治に直接声を上げるようになりました。
新聞や雑誌がその声を広め、世論が内閣の進退を左右するようになっていきます。
大正時代を中心に広がった、政治や社会の民主化を求める風潮を何という?
大正デモクラシー
普通選挙の要求、政党内閣の実現、労働運動・女性運動などの社会運動が、この風潮の中で広がった。
吉野作造が唱えた、主権がどこにあるかは問わず、政治の目的を民衆の幸福に置き、政策の決定は民衆の意向によるべきだとする考え方は?
民本主義
天皇主権の大日本帝国憲法のもとでも、民衆の意向に基づく政治は実現できると説いた。普通選挙と政党内閣を求める運動の理論的な支えになった。
統治権は法人としての国家にあり、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治権を行使する、と説いた美濃部達吉の学説は?
天皇機関説
議会や政党内閣の役割を重んじる根拠になった。
1912〜1913 年に、藩閥の桂太郎内閣に反対し「閥族打破・憲政擁護」を掲げて起きた運動と、その結果は?
第一次護憲運動。民衆が議会を取り囲み、桂内閣は総辞職した(大正政変)
民衆の運動が内閣を倒した初めての例とされる。
2. 米騒動と原内閣
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(イ)
大戦景気で物価が上がる中、シベリア出兵を見越した米の買い占めで米価が急騰しました。
富山県の漁村の女性たちの行動をきっかけに、騒動は全国に広がります。
1918 年、米価の急騰に対して全国に広がった民衆の騒動を何という?
米騒動
軍隊まで出して鎮圧した寺内正毅内閣は、責任を取って総辞職した。
米騒動のあと 1918 年に成立した、立憲政友会の原敬を首相とする内閣が「初の本格的な政党内閣」とされるのはなぜか?
衆議院に議席を持つ政党の党首が首相となり、陸軍・海軍・外務の大臣以外をその党の党員で固めたから
爵位を持たない衆議院議員の首相だったことから、原は「平民宰相」と呼ばれた。
3. 普通選挙法と治安維持法
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(イ)
1924 年、政党を基盤としない内閣の成立に反対して、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派が第二次護憲運動を起こしました。
選挙で勝った護憲三派が加藤高明内閣をつくり、普通選挙を実現します。
1925 年、加藤高明内閣のもとで成立した普通選挙法で、衆議院議員の選挙権を持つことになったのはどんな人か?
満 25 歳以上のすべての男性(納税額による制限をなくした)
それまでは一定額以上の直接国税を納める男性に限られていた。女性にはまだ選挙権がなかった。
普通選挙法と同じ 1925 年に成立し、共産主義など社会主義運動の取り締まりを目的とした法律は?
治安維持法
選挙権を広げることで労働者の政治参加が強まり、社会主義が広がることを警戒した。のちに改正され、取り締まりの対象が広げられていった。
普通選挙法による初めての衆議院議員総選挙が行われたのは何年か?
1928 年
労働者や農民を基盤とする無産政党からも当選者が出た。
4. 政党内閣制の時代
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(イ)
大日本帝国憲法には、首相を議会の多数党から選ぶという定めはありません。
それでも 1924 年から 1932 年までは、衆議院の多数党が内閣をつくることが慣行として続き、政党内閣制が機能しました。
1924 年の加藤高明内閣から 1932 年まで、衆議院で多数を占める政党の党首が内閣をつくった慣行は、当時何と呼ばれたか?
憲政の常道
憲法に定めのある制度ではなく、元老などが首相を推薦するときの慣行だった。
政党内閣が続いた時期に、交互に政権を担った 2 つの政党は?
立憲政友会と憲政会(のちの立憲民政党)
内閣が行き詰まって総辞職すると、もう一方の党の党首が組閣する、二大政党による議会政治の形ができた。
1932 年、政党内閣を途絶えさせた事件と、そのとき暗殺された首相は?
五・一五事件。犬養毅首相が海軍の青年将校らに暗殺された
こののち、第二次世界大戦後まで政党内閣は復活しなかった。