ヴェルサイユ体制とワシントン体制
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「歴史総合」C (2) ア (ア) の「ソヴィエト連邦の成立とアメリカ合衆国の台頭,ナショナリズムの動向と国際連盟の成立などを基に,総力戦と第一次世界大戦後の国際協調体制を理解すること」のうち、
大戦後の国際秩序を扱います。内容の取扱いは、国際連盟の成立、国際的な軍縮条約や不戦条約の締結などを扱い、
その中で日本が果たした役割や国際的な立場の変化に触れるよう求めています。
パリ講和会議での日本の立場と要求は、2026-09-27 に国立国会図書館の電子展示「史料にみる日本の近代」(3-7 パリ講和会議)と突き合わせました。
0. 何を押さえるか
大戦後の国際秩序は、ヨーロッパについてのヴェルサイユ体制と、アジア・太平洋についてのワシントン体制の 2 本立てです。
どちらも戦争をくり返さないための国際協調体制で、その柱が国際連盟と、軍備を減らす軍縮条約、戦争そのものを否定する不戦条約でした。
| ヴェルサイユ体制 | ワシントン体制 | |
|---|---|---|
| 地域 | ヨーロッパ | アジア・太平洋 |
| 出発点 | パリ講和会議(1919 年)とヴェルサイユ条約 | ワシントン会議(1921〜1922 年) |
| 中身 | ドイツの処理、東欧の新しい独立国、国際連盟 | 太平洋の現状維持、中国の主権尊重、海軍の主力艦の制限 |
| 日本 | 五大国の一員。国際連盟の常任理事国になる | 日英同盟が終わり、山東の旧ドイツ権益を中国に返す |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 国際連盟を提唱したのはアメリカのウィルソン大統領だが、アメリカは加盟しなかった(上院が条約の批准を拒んだ)
- 民族自決が認められたのはおもに東ヨーロッパ。アジア・アフリカの植民地には適用されず、それがナショナリズム(民族運動)を強めた
- 日本の立場はヴェルサイユで広がり、ワシントンで抑えられた。ワシントン体制は、大戦中に広げた日本の中国での勢力をおさえる性格を持っていた
1. パリ講和会議と国際連盟
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(ア)
講和の原則として掲げられたのは、アメリカのウィルソン大統領が 1918 年に示した考え方でした。
大戦で債権国となり発言力を強めたアメリカ合衆国の台頭が、戦後の国際秩序の形を決めていきます。
1918 年にアメリカのウィルソン大統領が示した、秘密外交の廃止・軍備縮小・民族自決・国際平和機構の設立などを内容とする講和の原則は?
十四か条の平和原則
ロシア革命政府の「平和に関する布告」に対抗する意味もあった。
1919 年のパリ講和会議で、ドイツと連合国が結んだ条約と、そのおもな内容は?
ヴェルサイユ条約。ドイツはすべての植民地を失い、軍備を制限され、巨額の賠償金を課された
アルザス・ロレーヌはフランスに返された。ドイツにとって厳しい内容は、のちの不満の火種になった。
1920 年に発足した国際連盟の本部が置かれた都市は?
ジュネーヴ(スイス)
日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国になった。
国際連盟が平和を守るしくみとして弱かった点を 3 つ挙げると?
アメリカが加盟せず大国がそろわなかったこと、議決が原則として全会一致だったこと、違反国への制裁が経済制裁に限られていたこと
ドイツとソ連も当初は加盟を認められなかった。全会一致のため、決定に時間がかかった。
パリ講和会議で日本が国際連盟規約に盛り込むよう求めたが、認められなかった提案は?
人種差別撤廃提案
採決では過半数が賛成したが、オーストラリアやイギリスが強く反対し、議長のアメリカ大統領ウィルソンが全会一致を要するとして規約に入れなかった。当時アメリカでは日本人移民の排斥が問題になっていた。
パリ講和会議で日本が得たものを 2 つ挙げると?
山東省の旧ドイツ権益の継承と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治
委任統治は、国際連盟が特定の国に旧ドイツ領などの統治を任せるしくみ。
2. ナショナリズムの動向
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(ア)
民族自決の原則は、ヨーロッパではポーランドやチェコスロヴァキアなどの独立として実現しました。
一方、アジアの人々はこの原則に期待を寄せたものの、植民地には適用されませんでした。その失望が各地のナショナリズムを高めました。
1919 年、朝鮮で日本からの独立を求めて起きた運動を何という?
三・一独立運動
ソウルでの独立宣言をきっかけに朝鮮全土に広がった。日本は鎮圧したのち、武力を前面に出す統治から「文化政治」へと方針を変えた。
1919 年、パリ講和会議で山東省の旧ドイツ権益の返還が認められなかったことに抗議して、中国で起きた運動を何という?
五・四運動
北京の学生から始まり、労働者・商人にも広がった。中国政府はヴェルサイユ条約の調印を拒んだ。
第一次世界大戦後のインドで、イギリスからの自治・独立を求めて非暴力・不服従の運動を指導した人物は?
ガンディー
大戦中に約束された戦後の自治が実現しなかったことが、運動の背景にある。
3. ワシントン会議と軍縮
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(ア)
アジア・太平洋の秩序を話し合うため、アメリカが呼びかけてワシントン会議が開かれました。
建艦競争で財政が苦しかった各国の思惑も重なり、この地域で初めての本格的な軍縮条約が結ばれました。
ワシントン会議で結ばれた条約のうち、太平洋の島々の現状維持を約束し、あわせて日英同盟を終わらせたものは?
四か国条約
アメリカ・イギリス・日本・フランスが結んだ。
ワシントン会議で結ばれた、中国の主権と領土の尊重・門戸開放・機会均等を約束した条約は?
九か国条約
この会議と並行した交渉で、日本は山東省の旧ドイツ権益を中国に返すことになった。
ワシントン海軍軍縮条約が保有量を制限した軍艦と、日本の割合は?
主力艦。日本はアメリカ・イギリスのそれぞれ 6 割
1930 年のロンドン海軍軍縮条約では、巡洋艦などの補助艦の保有量も制限された。
4. 不戦条約と協調外交
根拠: 学習指導要領 歴史総合-C-(2)-ア-(ア)
1920 年代の後半は国際協調がもっとも進んだ時期でした。日本も幣原喜重郎外相のもとで、列強との協調と中国への内政不干渉を唱える外交を進めました。
1928 年にパリで結ばれ、国際紛争を解決する手段として戦争に訴えることを否定した条約は?
不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)
日本も調印した。違反への制裁の定めはなく、自衛のための戦争は禁じられていないと解釈された。
1920 年代に、列強との協調と中国への内政不干渉を方針とした日本の外交を、当時の外相の名から何と呼ぶ?
幣原外交(協調外交)
ワシントン体制の枠組みを守ることを重んじた。のちに軍部などから「軟弱外交」と批判された。