アジア諸国の変革と民族運動
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「歴史総合」B (3) ア (イ) の「列強の帝国主義政策とアジア諸国の変容」。内容の取扱いは、
アジア諸国に近代化に向けた動向や民族意識の形成など、主体的な社会変革への動きがあったことに気付くよう求めています。
アジアの人々は、列強の進出をただ受けたのではなく、自ら国を作り変えようとし、支配に抵抗しました。
0. 何を押さえるか
列強の圧力を受けたアジアの国々では、上からの近代化の改革と、下からの民族運動の両方が起きました。
その中で、同じ民族として外国の支配に立ち向かおうとする民族意識の形成が進みます。
| 地域 | 近代化の改革 | 民族運動・革命 |
|---|---|---|
| 中国(清) | 洋務運動、変法(戊戌の変法) | 義和団戦争、辛亥革命(1911) |
| インド | ― | インド国民会議、ベンガル分割反対運動 |
| ベトナム | ― | ドンズー(東遊)運動 |
| オスマン帝国 | タンジマート、ミドハト憲法(1876) | 青年トルコ革命(1908) |
| イラン | ― | イラン立憲革命(1905〜1911) |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 洋務運動は技術だけ、変法は政治制度まで。洋務運動は「中体西用」で伝統の体制を守ったまま西洋の軍事・工業技術を入れ、変法は日本の明治維新にならって立憲制をめざした
- 義和団は「扶清滅洋」で清を助け外国を排斥しようとし、辛亥革命は清そのものを倒した。どちらも反外国・反支配の動きだが向きが違う
- インド国民会議ははじめイギリスに協力的だった。反英の運動に変わったのは 1905 年のベンガル分割令がきっかけ
1. 中国の近代化と革命
根拠: 学習指導要領 歴史総合-B-(3)-ア-(イ)
アヘン戦争以後、清は列強の圧力と国内の反乱に直面しました。
改革は段階を追って深まり、最後には王朝そのものを倒す革命に行き着きます。
19 世紀後半の清で、「中体西用」の考えのもと、伝統の体制を守りつつ西洋の軍事・工業技術を取り入れようとした動きは?
洋務運動
李鴻章ら漢人官僚が進めたが、日清戦争での敗北でその限界が明らかになった。
日清戦争の敗北後、康有為らが光緒帝のもとで、日本の明治維新にならい立憲制をめざした改革は?
変法(戊戌の変法、1898 年)
西太后ら保守派のクーデタ(戊戌の政変)で、わずか 100 日ほどでつぶされた。
「扶清滅洋」を唱えて外国人やキリスト教を排斥し、1900 年に北京の公使館を包囲した集団は?
義和団
清はこれに乗じて列強に宣戦したが、日本とロシアを主力とする 8 か国の連合軍に敗れた。1901 年の北京議定書で、列強は北京に軍隊を置く権利を得た。
民族・民権・民生の三民主義を唱え、中国同盟会を率いて清の打倒をめざした革命家は?
孫文
1905 年に東京で中国同盟会を結成した。
1911 年に武昌での蜂起から始まり、翌年に中華民国の成立と清の滅亡をもたらした革命は?
辛亥革命
1912 年、孫文が臨時大総統となって中華民国が成立し、宣統帝が退位して清は滅んだ。のちに袁世凱が大総統の地位を握った。
2. インドとベトナムの民族運動
根拠: 学習指導要領 歴史総合-B-(3)-ア-(イ)
イギリスとフランスの植民地支配のもとで、教育を受けた人々を中心に民族意識が育ち、独立や自治を求める運動が起きました。
1857 年、インドでイギリス東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー)の反乱から広がった大規模な反英闘争は?
インド大反乱
鎮圧後、イギリスはムガル帝国を滅ぼし、東インド会社を解散して直接統治に切り替えた。1877 年にはヴィクトリア女王がインド皇帝となりインド帝国が成立した。
1885 年、イギリスが協力的なインド人エリートの意見を聞く場として発足させたが、のちに反英運動の中心となった組織は?
インド国民会議
1905 年のベンガル分割令をきっかけに反英の姿勢を強めた。
1906 年のカルカッタ大会で、インド国民会議が掲げた 4 つの要求(四綱領)は?
英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・民族教育
ベンガル分割令に反対する運動の中で採択された。
ベンガル分割令は、どのような意図で出されたと考えられているか?
ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して、民族運動を分断すること
同じ 1906 年、イギリスの後押しで全インド=ムスリム連盟が結成された。
20 世紀初め、ファン=ボイ=チャウが、ベトナムの青年を日本へ留学させようとした運動は?
ドンズー(東遊)運動
日露戦争の日本の勝利に刺激された運動だったが、日本がフランスと協約を結んで留学生を国外に退去させたため挫折した。
3. 西アジアの立憲運動
根拠: 学習指導要領 歴史総合-B-(3)-ア-(イ)
西アジアでも、列強の圧力の中で、憲法と議会によって国を立て直そうとする動きが起きました。
1876 年、オスマン帝国で制定され、アジアで最初の本格的な憲法とされるものは?
ミドハト憲法
大宰相ミドハト=パシャが起草した。しかし 1878 年、ロシアとの戦争を理由にスルタンが停止した。
1908 年、オスマン帝国で、停止されていたミドハト憲法の復活を求めて起きた革命は?
青年トルコ革命
憲法と議会が復活した。
1905 年から、イランで専制と外国への利権の譲り渡しに反対し、憲法と議会の開設を求めて起きた運動は?
イラン立憲革命
議会が開かれ憲法が定められたが、イランに勢力を持つロシアとイギリスの干渉で挫折した。