55年体制と安保改定
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」D (3) ア (エ) のうち、平和条約と独立の回復のあとの政治の枠組みを扱います。
独立後の政治は、憲法の改正や再軍備、日米安全保障条約をめぐって、保守と革新が向き合う形になりました。1955 年にその構図が固まり、1960 年の安保改定で最大の対立を迎えます。
0. 何を押さえるか
1955 年に、保守と革新がそれぞれ一つの党にまとまりました。
| 保守 | 革新 | |
|---|---|---|
| まとまった党 | 自由民主党(自由党と日本民主党の合同) | 日本社会党(左派と右派の統一) |
| 年 | 1955 年 11 月 | 1955 年 10 月 |
| 議席の目安 | 衆議院の約 3 分の 2 | 約 3 分の 1 |
| 主な主張 | 憲法改正、日米安保体制の強化 | 憲法擁護、非武装中立、安保反対 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 社会党の統一が先(10 月)、保守合同があと(11 月)。保守は革新の統一に対抗してまとまった
- 社会党は憲法改正の発議を阻める 3 分の 1 を保った。自民党は政権を握り続けたが、改憲に必要な 3 分の 2 には届かなかった
- 新安保条約の承認は、衆議院で強行採決され、参議院の議決がないまま自然成立した
1. 保守合同と社会党の統一
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(エ)
独立の前後から長く政権を担った吉田茂は、1954 年に退陣しました。代わった鳩山一郎は、憲法改正と再軍備を掲げます。
1954 年、吉田茂内閣に代わって成立した内閣と、その首相が属した政党は?
鳩山一郎内閣、日本民主党
鳩山は公職追放を解除されて政界に復帰していた。吉田とは対照的に、憲法改正や自主外交を唱えた。
1955 年 10 月、講和問題で分かれていた左派と右派が一つにまとまった政党は?
日本社会党
統一した社会党が憲法改正を阻める議席を持ったことが、保守勢力に危機感を抱かせた。
1955 年 11 月、自由党と日本民主党が合同して結成された政党は?
自由民主党
これを保守合同という。財界も保守の安定した政権を望んで後押しした。
保守の自由民主党と革新の日本社会党が向き合い、自民党が政権を握り続けた政治の枠組みを何という?
55 年体制
1993 年に自民党が政権を失うまで、およそ 38 年続いた。議席の比から「1 と 2 分の 1 政党制」とも呼ばれた。
2. 岸信介内閣と安保改定
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(エ)
1957 年に成立した岸信介内閣は、日米関係を対等に近づけることを目標に、日米安全保障条約の改定に取り組みました。
1958 年、岸信介内閣が国会に出したが、反対運動が広がって成立を断念した法案は?
警察官職務執行法の改正案(警職法改正案)
警察官の権限を強める内容で、戦前の警察に戻るとの批判を招いた。
1960 年 1 月に調印された新しい日米安全保障条約(日米相互協力及び安全保障条約)で、旧条約から変わった点は?
アメリカの日本防衛義務が明記され、条約の期限が 10 年と定められた
旧条約の内乱に出動できる規定は削られた。
新安保条約とともに取り決められた、在日アメリカ軍の配置や装備の重要な変更などについて、日本政府と話し合うしくみは?
事前協議制
条約本体ではなく、交換公文で定められた。
3. 安保闘争とその後
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(エ)
新安保条約は、日本がアメリカの戦争に巻き込まれるおそれがあるとして、強い反対を受けました。
1960 年、新安保条約の承認に反対して、国会周辺で連日大規模なデモが行われた運動を何という?
安保闘争
社会党・共産党・総評などが安保改定阻止国民会議をつくり、学生(全学連)や一般の市民も加わった。
安保闘争が一気に広がったきっかけは?
衆議院で、政府・与党が警官隊を入れて新安保条約の承認を強行採決したこと
条約への反対に、議会政治を軽んじる政府への抗議が加わった。
新安保条約はどのように成立し、岸信介内閣はどうなったか?
参議院の議決がないまま自然成立し、条約の発効を見届けて岸内閣は総辞職した
予定されていたアメリカのアイゼンハワー大統領の来日は中止された。
岸信介内閣のあとを継いだ池田勇人内閣は、政治の重点をどこに移したか?
政治の対立を避け、経済の成長に重点を移した
「寛容と忍耐」を掲げ、所得倍増計画を打ち出した。以後、保守政権は憲法改正を正面から掲げることを控えるようになった。
1960 年、安保改定をめぐる路線の対立から社会党の右派の一部が離れて結成した政党は?
民主社会党(のちの民社党)
1964 年には公明党も結成され、1960 年代には野党の多党化が進んだ。