戦後の経済復興と高度経済成長
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」D (3) ア (エ) のうち、戦後の経済復興と高度経済成長を扱います。
敗戦直後の激しいインフレと物不足から、日本経済はドッジ・ラインと朝鮮戦争の特需をへて立ち直り、1950 年代半ばから約 20 年間、年平均でおよそ 10% の高い成長を続けました。その陰で公害が深刻になります。
0. 何を押さえるか
復興から高度成長までは、段階ごとに「何が経済を動かしたか」で整理します。
| 時期 | 段階 | 経済を動かしたもの |
|---|---|---|
| 1946〜1948 | 復興の始まり | 傾斜生産方式、復興金融金庫の融資(インフレが進む) |
| 1949 | インフレの収束 | ドッジ・ライン(不況になる) |
| 1950〜 | 復興の加速 | 朝鮮戦争の特需 |
| 1955〜1973 | 高度経済成長 | 民間企業の設備投資、技術革新、安い石油、豊富な労働力 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- ドッジ・ラインはインフレを止めたが、深刻な不況を招いた。景気を回復させたのは朝鮮戦争の特需
- 「もはや戦後ではない」(1956 年の経済白書)は高度成長の始まりの時期の言葉。所得倍増計画(1960)より前
- 1ドル=360円の単一為替レートは 1949 年に設定され、1971 年まで続いた
1. インフレと傾斜生産方式
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(エ)
敗戦直後の日本は、生産が落ち込むなか、復員や引揚げで人口が増え、食料も物資も極端に不足しました。物価は急激に上がりました。
1946 年、幣原喜重郎内閣がインフレを抑えるため、預金を封鎖し、旧円の流通を止めて新円に切り替えさせた措置は?
金融緊急措置令
一時的に通貨の量を減らしたが、効果は長続きしなかった。
第 1 次吉田茂内閣が採用した、資材と資金を石炭と鉄鋼の生産に集中させて産業全体の復興を図った政策は?
傾斜生産方式
必要な資金は復興金融金庫が融資した。生産は回復に向かったが、融資の資金を日本銀行が引き受けたためインフレがさらに進んだ。
2. ドッジ・ラインと特需
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(エ)
1949 年、経済安定九原則を実行するため、アメリカから銀行家ドッジが派遣されました。
ドッジ・ラインの柱となった財政の方針は?
赤字を一切出さない超均衡予算
補助金を削り、復興金融金庫の新たな融資も止めた。インフレは収まったが、中小企業の倒産や失業が増え、深刻な不況になった。
ドッジ・ラインのもとで、1949 年に設定された円とドルの単一為替レートは?
1ドル=360円
円の価値を固定して日本を国際経済に結びつけ、輸出を伸ばすねらいがあった。
1949 年、所得税を中心とする直接税中心の税制と、累進課税を勧告したアメリカの使節団は?
シャウプ使節団(シャウプ勧告)
これにもとづいて税制が改められ、戦後の税制の基本となった。
1950 年に始まった朝鮮戦争で、日本経済が急に回復したのはなぜか?
アメリカ軍から武器・弾薬の製造や車両の修理などの大量の注文(特需)を受けたから
この特需景気で、1951 年には鉱工業生産がほぼ戦前の水準に回復した。
3. 高度経済成長の仕組み
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(エ)
1955 年ごろから、日本経済は神武景気・岩戸景気・いざなぎ景気と大型の好景気を重ねて成長しました。
1956 年の経済白書に記され、戦後の復興の段階が終わったことを示した言葉は?
「もはや戦後ではない」
これからの成長は、復興ではなく技術革新による近代化で支えられるという意味がこめられていた。
高度経済成長を支えた民間企業の動きとして、「投資が投資を呼ぶ」と言われたのは何か?
鉄鋼・造船・自動車・石油化学などの分野で、外国の技術を取り入れた設備投資が次々に行われたこと
設備投資で生産が伸びると、関連する産業でも投資が増えた。エネルギーの中心も石炭から安い石油に代わった(エネルギー革命)。
1960 年、池田勇人内閣が打ち出した、10 年間で国民総生産を 2 倍にする計画は?
国民所得倍増計画
実際の成長は計画を上回った。1968 年には国民総生産が資本主義国のなかでアメリカに次ぐ第 2 位になった。
1964 年、日本が開放経済体制に移ったことを示す、2 つの国際的な出来事は?
IMF 8 条国への移行と、OECD(経済協力開発機構)への加盟
為替と資本の自由化が進んだ。同じ年に東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開かれた。
1950 年代後半に普及した白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫をまとめて何と呼んだか?
三種の神器
1960 年代後半にはカラーテレビ・クーラー・自動車(3C)が普及した。大量生産と大量消費の暮らしが広がった。
4. 高度経済成長のひずみと公害
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(エ)
農村から都市へ人口が大量に移り、都市は過密に、農村は過疎になりました。工場の排水や煤煙は、住民の健康をむしばみます。
四大公害訴訟で争われた 4 つの公害を挙げよ。
水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそく
いずれも 1970 年代初めまでに被害者の側が勝訴した。水俣病は有機水銀、イタイイタイ病はカドミウム、四日市ぜんそくは工場の排煙が原因だった。
1967 年に制定された公害対策の基本法と、1971 年に公害対策と環境保全のために設けられた官庁は?
公害対策基本法、環境庁
1970 年の国会では公害に関する法律が一度に整備された。都市では、公害対策や福祉を掲げる革新自治体も生まれた。