豊臣秀吉の対外政策と朝鮮侵略
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」C (1) ア (ア) の、織豊政権の政治・経済政策、貿易や対外関係などを扱う事項に当たります。
秀吉は、キリスト教を警戒しながらも南蛮貿易は続け、海の秩序を握ったうえで、朝鮮へ大軍を送りました。
0. 何を押さえるか
秀吉の対外関係は、キリスト教の布教は制限するが、貿易は奨励するという線で進みました。
その一方で、明の征服をめざして朝鮮に 2 度出兵し、朝鮮に大きな被害を与え、政権自身も弱めました。
| 文禄の役 | 慶長の役 | |
|---|---|---|
| 年 | 1592〜1593 年 | 1597〜1598 年 |
| 朝鮮での呼び名 | 壬辰倭乱 | 丁酉倭乱 |
| 経過 | 漢城(ソウル)を占領し北へ進むが、朝鮮の水軍や義兵、明の援軍に押され、休戦 | 講和が不調に終わって再び出兵するが苦戦 |
| 終わり方 | 明との講和交渉へ | 1598 年の秀吉の死で撤兵 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- バテレン追放令(1587 年)は宣教師を国外に追う命令で、貿易は禁じていない。そのため布教の取締りは徹底しなかった
- 海賊取締令(1588 年)は倭寇などの海賊を禁じた法令。刀狩令と同じ年に出された
- 文禄の役が先(1592 年)、慶長の役が後(1597 年)。どちらも出兵の本陣は肥前の名護屋に置かれた
1. キリスト教への警戒とバテレン追放令
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(1)-ア-(ア)
秀吉ははじめ布教を認めていましたが、九州を平定したとき、キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会に寄進していたことを知り、方針を変えました。
1587 年、九州平定の帰途に博多で秀吉が出し、宣教師の国外退去を命じた法令は?
バテレン追放令
「バテレン」はポルトガル語で神父を意味する語から来た。
バテレン追放令のあとも、キリスト教の取締りが徹底しなかったのはなぜか?
南蛮貿易は奨励し続け、貿易と一体の布教を止め切れなかったから
秀吉は貿易の利益を重く見て、商人の来航は禁じなかった。
秀吉がバテレン追放令を出したきっかけの一つとされる、キリシタン大名の行いは?
大村純忠が長崎をイエズス会に寄進していたこと
教会が領地を持ち、大名がその下に従うことを、秀吉は統一の妨げと見た。
1596 年に土佐に漂着したスペイン船の乗組員の発言をきっかけに、秀吉が翌 1597 年、宣教師・信者 26 人を長崎で処刑した出来事は?
26 聖人殉教(サン=フェリペ号事件がきっかけ)
処刑は和暦では慶長元年 12 月で、年表では 1596 年とすることも多い。
スペインが布教を領土拡大の手段にしているという疑いが強まった。
2. 海賊取締令と貿易の奨励
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(1)-ア-(ア)
秀吉は、海の秩序を自分のもとに置こうとしました。海賊を取り締まって海上交通を安全にし、貿易の利益を政権に集めようとしたのです。
1588 年、秀吉が倭寇などの海賊行為を禁じた法令は?
海賊取締令
海の武装勢力を抑えて、海上の支配を秀吉のもとに一本化した。
秀吉は、長崎をどのように扱ったか?
イエズス会から取り上げて直轄地とした
貿易港を直接押さえ、南蛮貿易の利益を握ろうとした。
秀吉が服属と入貢を求めた相手には、朝鮮のほかにどこがあったか?
ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)など
東アジアの国際秩序の中心に日本を置こうとする考えの表れとされる。
3. 文禄・慶長の役
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(1)-ア-(ア)
秀吉は明の征服をめざし、その道案内を朝鮮に求めました。朝鮮がこれを拒むと、大軍を朝鮮半島に送り込みました。
秀吉の朝鮮出兵で、出兵の本陣が置かれた場所は?
肥前の名護屋(名護屋城)
現在の佐賀県の北部。ここから大軍が朝鮮半島へ渡った。
1592 年に始まる最初の朝鮮出兵を何といい、朝鮮では何と呼ぶか?
文禄の役、壬辰倭乱
日本軍は漢城(ソウル)を占領したが、しだいに押し返された。
文禄の役で日本軍が苦戦した理由を 3 つ挙げよ。
李舜臣の率いる朝鮮水軍の活躍、各地の義兵の抵抗、明の援軍
海上の補給路を断たれ、陸上でも抵抗にあって戦線が伸びきった。
1597 年に始まる 2 度目の出兵を何といい、どのように終わったか?
慶長の役。1598 年の秀吉の死をきっかけに撤兵した
朝鮮では丁酉倭乱と呼ぶ。2 度の出兵は朝鮮に大きな被害を与え、豊臣政権も弱めた。
朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮の陶工によって始まった焼き物の例は?
有田焼(肥前)・萩焼(長門)・薩摩焼など
朝鮮からはほかに活字印刷の技術も伝わった。