豊臣秀吉の全国統一と太閤検地
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」C (1) ア (ア) の、織豊政権の政治・経済政策、貿易や対外関係などを扱う事項に当たります。
秀吉は全国を統一し、太閤検地と刀狩によって、近世の土地制度と身分のしくみの土台をつくりました。
0. 何を押さえるか
織豊政権の後半を担った豊臣秀吉は、1590 年に全国統一を完成させました。
その支配の柱は、土地を石高で表す太閤検地と、百姓から武器を取り上げる刀狩です。
| 太閤検地 | 刀狩 | 身分統制令 | |
|---|---|---|---|
| 年 | 1582 年から順次 | 1588 年 | 1591 年 |
| 中身 | 土地の面積・等級を調べ、生産力を石高で表す。耕作者を検地帳に登録 | 百姓から刀・鉄砲などの武器を没収 | 武家奉公人が百姓・町人になること、百姓が商人・職人になることなどを禁止 |
| 結果 | 荘園制が解体、石高制が成立 | 百姓は耕作に専念 | 身分ごとの職業が固定 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 太閤検地の「一地一作人」は、1 つの土地に 1 人の耕作者を登録すること。荘園にあった重なり合う権利が否定された
- 刀狩の名目は方広寺の大仏をつくる釘などに使うこと。本当の狙いは一揆を防ぎ、百姓を耕作に専念させること
- 兵農分離は、検地と刀狩の両方によって進んだ。武士は城下町へ、百姓は村へと分けられた
1. 全国統一への道
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(1)-ア-(ア)
本能寺の変のあと、羽柴秀吉は明智光秀を討って信長の後継者の地位を固め、朝廷の権威も利用して全国を従えていきました。
1582 年、羽柴秀吉が明智光秀を破った戦いは?
山崎の戦い
本能寺の変のあと、中国地方から急いで引き返して光秀を討った。
1583 年、秀吉が柴田勝家を破り、信長の後継者の地位を固めた戦いは?
賤ヶ岳の戦い
同じ年、秀吉は石山本願寺の跡に大坂城を築き始めた。
秀吉が武家として初めて就き、朝廷の権威で大名を従わせるもとにした官職は?
関白(1585 年)
翌 1586 年には太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を与えられた。
秀吉が大名どうしの私的な戦争を禁じ、領土争いを自分の裁定に従わせた命令を何という?
惣無事令
これに従わない九州の島津氏や関東の北条氏を、違反を理由に攻めて従わせた。
1590 年、秀吉が全国統一を完成させたのは、どの大名を滅ぼしたことによるか?
小田原の北条氏
続いて東北の大名も従え、全国統一が成った。
2. 太閤検地と石高制
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(1)-ア-(ア)
秀吉は、支配下の土地を統一した基準で測り直しました。これが太閤検地で、秀吉の経済政策の中心です。
太閤検地で、ばらばらだった枡をどう統一したか?
京枡に統一した
面積の単位も統一し、1 段を 300 歩とした。
太閤検地で、田畑や屋敷地の生産力を米の量で表したものを何という?
石高
大名はこの石高に応じて軍役を負い、百姓は石高に応じて年貢を負った。この仕組みを石高制という。
太閤検地の「一地一作人」の原則とは? それで何が崩れたか?
1 つの土地の耕作者を 1 人に決めて検地帳に登録すること。荘園制の重なり合う権利が崩れた
実際に耕作する百姓が年貢を納める責任者となり、その間に入っていた者の取り分が否定された。
太閤検地で、耕作者の名や土地の等級・面積・石高を村ごとに記した帳簿は?
検地帳
百姓はここに登録されることで耕作の権利を認められ、同時に年貢を納める義務を負った。
3. 刀狩と身分の固定
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(1)-ア-(ア)
検地で土地と耕作者を把握した秀吉は、百姓から武器を取り上げ、身分ごとに職業を固定しました。
こうして、武士と百姓を分ける兵農分離が進みました。
1588 年、秀吉が百姓から刀・鉄砲などの武器を取り上げた命令は?
刀狩令
没収した武器は方広寺の大仏をつくる釘などに使うと説明した。
刀狩の本当の狙いは何か?
一揆を防ぎ、百姓を耕作に専念させること
武器を持って戦う力を百姓から奪い、武士との区別をはっきりさせた。
1591 年、武家奉公人が百姓・町人になることや、百姓が商人・職人になることを禁じた法令は?
身分統制令
翌 1592 年には、朝鮮への出兵に備えて、身分ごとに戸数・人数を調べる人掃令も出された。
検地と刀狩によって、武士と百姓が分けられたことを何という?
兵農分離
武士は城下町に集められ、百姓は村で耕作と年貢の負担に専念する形ができた。