田沼時代と寛政の改革
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」C (3) ア (イ) の、産業の発達、飢饉や一揆の発生、幕府政治の動揺と諸藩の動向などを基に幕藩体制の変容を理解する事項に当たります。
18 世紀後半、商業の利益に目を向けた田沼意次と、それを改めて引き締めに転じた松平定信を比べます。
0. 何を押さえるか
年貢を増やすだけでは財政がもたなくなるなか、田沼意次は産業の発達と商業の活発さに財源を求めました。
しかし天明の飢饉と打ちこわしで失脚し、代わった松平定信は、農村の立て直しと倹約・統制で幕府を引き締めました(寛政の改革)。
| 田沼時代 | 寛政の改革 | |
|---|---|---|
| 中心人物 | 老中田沼意次(10 代家治) | 老中松平定信(11 代家斉) |
| 時期 | 1767 年に側用人、1772 年に老中〜1786 年 | 1787〜1793 年 |
| 財源・経済の考え方 | 商業の利益に課税する(株仲間の公認と運上・冥加) | 年貢の土台である農村を立て直す、倹約 |
| 主な政策 | 南鐐二朱銀、印旛沼・手賀沼の干拓、長崎貿易で銅・俵物の輸出 | 囲米、旧里帰農令、棄捐令、人足寄場、七分積金、寛政異学の禁 |
| 終わり方 | 天明の飢饉と一揆の続発、家治の死で失脚(1787 年の打ちこわしで田沼派も退く) | 尊号一件などで家斉と対立して退任 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 株仲間を積極的に公認したのは田沼。株仲間を解散させたのは天保の改革の水野忠邦
- 長崎貿易で田沼は輸出を増やして金銀を流入させようとした。新井白石は輸入を絞って流出を防ごうとした
- 寛政異学の禁は、幕府の学問所で朱子学以外の講義を禁じたもの。世の中の学問をすべて禁じたのではない
1. 田沼意次の政治
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(3)-ア-(イ)
田沼は、商人の経済力を幕府の財政に取り込もうとしました。
年貢に頼る従来の発想から離れた点で、産業の発達に応じた政治だったといえます。
田沼意次が株仲間を広く公認したのは、幕府にとって何のためか?
営業の独占を認める代わりに運上・冥加という税を納めさせ、収入を増やすため
商業の利益に課税するという、年貢中心の財政からの転換だった。
田沼時代に発行された、金貨の単位で通用する計数銀貨は?
南鐐二朱銀
8 枚で金 1 両と交換できるとされ、金を中心に貨幣の単位をまとめる方向を示した。
田沼意次は長崎貿易でどのような方針をとったか?
銅や俵物(いりこ・ほしあわび・ふかひれ)の輸出を増やし、金銀を国内に取り込もうとした
俵物は清向けの海産物で、蝦夷地などから集められた。
田沼意次が商人の資金も使って進めたが、洪水などで失敗に終わった下総の干拓事業は?
印旛沼・手賀沼の干拓
新田の開発を大規模に進めようとした。
田沼意次が失脚したのはなぜか?
天明の飢饉と各地の一揆・打ちこわしのなかで、賄賂の横行など政治への批判が高まり、将軍家治も死去したから
1784 年には子の田沼意知が江戸城内で斬られて死に、勢いが衰えていた。
2. 寛政の改革――農村の立て直しと都市の対策
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(3)-ア-(イ)
白河藩主として天明の飢饉を乗り切った松平定信は、吉宗の孫でもあり、享保の改革を手本にしました。
飢饉で荒れた農村と、打ちこわしの起きた江戸の両方に手を打ちます。
飢饉に備えて、大名に 1 万石につき 50 石の米を蓄えさせた政策は?
囲米
各地に社倉・義倉をつくらせて米穀を蓄えさせた。
江戸に流れ込んだ農民に、資金を与えて村へ帰ることを勧めた法令は?
旧里帰農令
強制ではなく奨励にとどまった。農村の人手を取り戻し、年貢の土台を立て直すのがねらい。
江戸の石川島に設けられ、無宿人を収容して職業の技術を身につけさせた施設は?
人足寄場
打ちこわしの担い手になりやすい無宿人を減らし、治安を守るねらいもあった。
町の運営費(町入用)を節約させ、節約分の 7 割を積み立てて飢饉や災害に備えさせた制度は?
七分積金
江戸町会所がこれを運用し、貧しい人々の救済にあてた。
3. 寛政の改革――武士の救済と統制
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(3)-ア-(イ)
生活に苦しむ旗本・御家人を救うとともに、学問や出版、風俗を引き締めました。
厳しい統制は人々の反発も招き、改革は 6 年ほどで終わります。
旗本・御家人が札差から借りた金について、古い借金を帳消しにさせた法令は?
棄捐令
札差は旗本・御家人の蔵米を換金し、それを担保に金を貸していた。武士の救済にはなったが、札差が貸し渋るようになった。
1790 年、幕府の学問所で朱子学以外の学問を教えることを禁じた政策は?
寛政異学の禁
朱子学を正学として秩序を引き締めた。学問所はのちに幕府直轄の昌平坂学問所になった。
寛政の改革の出版統制で処罰された、洒落本と黄表紙の作者はそれぞれ誰?
洒落本=山東京伝、黄表紙=恋川春町
海防の必要を説いた林子平の『海国兵談』も、政治を批判したとして処罰された。
光格天皇が父に太上天皇の称号を贈ろうとし、松平定信が拒んだ事件を何という?
尊号一件
将軍家斉との対立も深まり、定信は 1793 年に老中を退いた。