文治政治と正徳の政治
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」C (3) ア (ア) の、法や制度による支配秩序の形成、技術の向上と開発の進展、学問・文化の発展などを基に幕藩体制の確立を理解する事項に当たります。
武力で大名を押さえつける政治から、儀礼と学問で秩序を保つ政治へ移っていく 17 世紀後半〜18 世紀初めを扱います。
0. 何を押さえるか
4 代家綱のころから、幕府は大名の取りつぶしを減らし、儒学の考えで上下の秩序を整える文治政治に転じました。
5 代綱吉はそれを押し進め、6 代家宣・7 代家継のもとでは儒学者新井白石が政治を担いました(正徳の政治)。
| 家綱のころ | 綱吉の政治 | 正徳の政治(家宣・家継) | |
|---|---|---|---|
| 中心人物 | 保科正之(補佐) | 綱吉・側用人柳沢吉保 | 新井白石・側用人間部詮房 |
| 大名・武士への方針 | 末期養子の禁を緩める、殉死を禁じる | 武家諸法度で「文武忠孝」と礼儀を求める | 将軍の権威を儀礼で高める |
| 学問・社会 | ― | 湯島聖堂、生類憐みの令、服忌令 | 閑院宮家の創設、朝鮮通信使の待遇の見直し |
| 貨幣・貿易 | ― | 元禄小判(質を落とす) | 正徳小判(質を戻す)、海舶互市新例 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 元禄小判は金の割合を下げた改鋳、正徳小判は慶長小判の水準に戻した改鋳。向きが逆
- 生類憐みの令は綱吉、それをやめたのは次の家宣
- 海舶互市新例(長崎新令)は輸入を絞って金銀の流出を抑える法。貿易の拡大ではない
1. 家綱の時代と文治政治への転換
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(3)-ア-(ア)
大名の改易が続いて主家を失った牢人が増え、社会不安が高まりました。
幕府はそれを受けて、大名家を続けさせる方向へ方針を変えます。
1651 年、兵学者由井正雪らが牢人を集めて幕府の転覆を企てた事件は?
慶安の変(由井正雪の乱)
大名の取りつぶしで牢人が増えたことが背景にあり、幕府が文治政治へ転じるきっかけになった。
慶安の変のあと、幕府が牢人の発生を減らすために緩めた決まりは?
末期養子の禁
大名が死の直前に養子を願い出ることを認め、跡継ぎがいないことによる改易を減らした。
家綱の時代に禁じられた、主君の死に家臣が後を追って死ぬ風習は?
殉死
家臣は主君個人ではなく、代々続く主家に仕えるものだという考えを示した。
2. 徳川綱吉の政治
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(3)-ア-(ア)
綱吉は儒学を重んじ、武士に武力よりも忠孝と礼儀を求めました。
一方、極端な法令や貨幣の改鋳は社会に混乱も生みました。
綱吉が出した武家諸法度(天和令)で、第 1 条の「弓馬の道」はどう改められたか?
「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」
武芸よりも主君への忠、親への孝と礼儀による秩序を重んじる方向に変わった。
綱吉が孔子を祀る建物を湯島に移し、林信篤(鳳岡)を大学頭に任じた施設は?
湯島聖堂
林家の朱子学を幕府が保護する姿勢を示した。のちに昌平坂学問所へつながる。
綱吉が 1685 年ごろから出した、犬をはじめ生き物の殺生を厳しく禁じた一連の法令は?
生類憐みの令
庶民の生活を圧迫したが、捨て子や病人の保護も含み、殺生を嫌う風潮を広めた面もあるとされる。
綱吉の時代、近親者が死んだときに喪に服す日数などを定め、死や血を避ける風潮を広げた法令は?
服忌令
生類憐みの令とともに、戦国の荒々しい気風を改める政策とされる。
勘定吟味役荻原重秀の意見で 1695 年に発行された元禄小判は、何をねらい、何を招いたか?
金の含有量を減らして差益(出目)で幕府の収入を増やしたが、物価の上昇を招いた
明暦の大火からの復興や寺社の造営で、幕府の財政が苦しくなっていた。
3. 新井白石と正徳の政治
根拠: 学習指導要領 日本史探究-C-(3)-ア-(ア)
家宣は生類憐みの令をやめ、朱子学者新井白石を用いて政治を改めました。
白石は、将軍の権威を儀礼で高めることと、貨幣と貿易の立て直しを進めました。
6 代家宣・7 代家継に仕え、正徳の政治を進めた朱子学者は?
新井白石
木下順庵に学んだ。政治は側用人間部詮房と組んで進めた。
新井白石が朝鮮通信使について改めたことは?
待遇を簡素にし、国書での将軍の称号を「日本国大君」から「日本国王」に改めた
費用を減らすとともに、将軍が日本を代表する地位にあることをはっきりさせるねらいがあった。
正徳の政治のとき、朝廷との結びつきを強めるために新しく設けられた宮家は?
閑院宮家
皇位の継承を安定させるためでもあり、幕府と朝廷の協調を示した。
新井白石が 1714 年に発行した正徳小判は、元禄小判と何が違うか?
金の含有量を慶長小判と同じ水準に戻した
元禄の改鋳で上がった物価を抑えるのがねらいだった。
1715 年、新井白石が長崎貿易の船の数と取引額を制限した法令は?
海舶互市新例(長崎新令)
清の船は年 30 隻、オランダ船は年 2 隻までとし、支払いにあてる金銀が国外へ流れ出るのを抑えた。