摂関政治
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」A (3) ア (イ) の「貴族政治の展開」に当たります。
藤原北家が天皇の外戚となり、摂政・関白として政治の実権を握るまでの手順と、ほかの氏族を退けていった事件の流れを押さえます。
0. 何を押さえるか
藤原北家は、娘を天皇の后にし、生まれた皇子を天皇に立てて、天皇の母方の祖父やおじ(外戚)として力を持ちました。
天皇が幼いときは摂政、成人してからは関白として政治を動かす仕組みを摂関政治といい、10 世紀後半から 11 世紀が最盛期です。
| 人物 | 立場・できごと |
|---|---|
| 藤原冬嗣 | 嵯峨天皇の蔵人頭。北家が伸びるきっかけ |
| 藤原良房 | 承和の変(842 年)・応天門の変(866 年)。臣下で初めて摂政に |
| 藤原基経 | 初めて関白に。阿衡の紛議(888 年) |
| 藤原時平 | 菅原道真を大宰府に左遷(901 年) |
| 藤原氏 | 安和の変(969 年)で源高明を左遷。以後ほぼ常に摂政・関白が置かれる |
| 藤原道長・頼通 | 摂関政治の最盛期 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 摂政は天皇が幼いときに代わって政治を行う、関白は成人した天皇を補佐する
- 良房が最初の摂政(臣下として)、基経が最初の関白
- 醍醐・村上天皇の時代は摂政・関白を置かずに天皇が自ら政治を行い、のちに「延喜・天暦の治」とたたえられた
1. 藤原北家の台頭と他氏排斥
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(イ)
藤原北家は、天皇との結びつきを強めながら、事件のたびにほかの有力な氏族を政治の中心から退けていきました。
これを他氏排斥といいます。
842 年の承和の変で、藤原良房が得たものは?
自分の妹が生んだ道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子に立てられた
皇太子だった恒貞親王が退けられ、伴健岑・橘逸勢らが流された。
藤原良房が、臣下として初めて摂政になったのはどのような状況でか?
幼い孫の清和天皇が即位し、その政治を代わって行った
866 年の応天門の変の後、正式に摂政に任じられた。
866 年の応天門の変で失脚し、古くからの名族が没落するきっかけになった人物は?
伴善男
応天門に火をつけた罪で流され、伴(大伴)氏や紀氏が力を失った。
藤原基経が関白になったとき、宇多天皇の詔にあった「阿衡」の語をめぐって政務を拒んだ事件は?
阿衡の紛議(888 年)
宇多天皇が詔を改めることになり、関白の政治的な地位が確かなものになった。
宇多天皇に重く用いられたが、901 年に藤原時平の策謀で大宰府に左遷された人物は?
菅原道真
学者の家の出身で、894 年には遣唐使の派遣中止を進言した。死後、その怨霊がおそれられ、北野天満宮にまつられた。
969 年の安和の変で左遷された人物と、この事件の意味は?
源高明。藤原氏の他氏排斥が完了した
この後は、ほぼ常に摂政・関白が置かれるようになった。一方で藤原氏どうしの争いが激しくなる。
2. 道長・頼通の時代
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(イ)
藤原氏の内部でも、摂政・関白の地位をめぐって争いがありました。
その争いに勝った藤原道長と子の頼通のもとで、摂関政治は最盛期を迎えます。
藤原道長が長く政治の頂点に立てたのはなぜか?
4 人の娘を中宮(皇后)や皇太子妃とし、後一条・後朱雀・後冷泉の 3 天皇の外祖父となったから
娘の彰子は一条天皇の中宮になった。道長は摂政にはなったが、関白にはならなかった。
藤原頼通の摂関政治が終わりに向かったきっかけは?
天皇に嫁がせた娘に皇子が生まれず、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位したこと
1068 年に即位した後三条天皇は、摂関家に遠慮せずに政治を進めた。
藤原頼通が宇治に建てた、阿弥陀堂の代表とされる建物は?
平等院鳳凰堂
頼通は 3 代の天皇の約 50 年にわたって摂政・関白を務めた。
3. 摂関政治の仕組み
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(イ)
摂関政治は、律令の仕組みを捨てたものではなく、太政官を通じて政治を行う点は変わりません。
天皇の外戚という立場を使って、官職の任命などを左右したのが特色で、こうした貴族政治のもとで政治は先例や儀式を重んじるものになっていきました。
当時の結婚や子育ての習慣が、母方の親族の力を強めたのはなぜか?
夫が妻の家に通ったり住んだりし、子どもは母方の家で育てられることが多かったから
そのため天皇の母方の祖父やおじが、天皇に強い影響力を持てた。
摂関政治のもとで、中・下級の貴族たちが摂関家に近づこうとしたのはなぜか?
摂政・関白が官職の任命に大きな力を持っていたから
とくに収入の多い国司(受領)の地位を望む貴族が、摂関家に仕えて奉仕した。
摂関政治のもとでも、重要な政治はどこで決められたか?
太政官での公卿の会議(陣定など)
天皇(摂政・関白)が最終的に決めるが、公卿の意見を聞く手順はとられていた。