国風文化
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」A (3) ア (イ) の「平安期の文化」のうち、10〜11 世紀の摂関政治の時代の文化に当たります。
かな文字と女性の文学、浄土教の広がり、貴族の住まいと絵画を押さえます。
0. 何を押さえるか
それまでに取り入れた唐の文化を土台に、日本の風土や人々の感覚に合った文化が育ちました。これを国風文化といいます。
遣唐使の派遣は 894 年に中止されましたが、その後も唐や宋の商人が来航し、大陸との交流は続いています。
| 分野 | 国風文化で生まれたもの |
|---|---|
| 文字・文学 | かな文字、『古今和歌集』、『源氏物語』『枕草子』などの女流文学 |
| 信仰 | 浄土教、本地垂迹説 |
| 建築 | 寝殿造、阿弥陀堂(平等院鳳凰堂) |
| 美術 | 大和絵、寄木造の仏像(定朝)、来迎図 |
| 書 | 和様の書(三跡) |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 弘仁・貞観文化は唐風(漢詩文・三筆・密教)、国風文化は日本風(かな・和歌・三跡・浄土教)
- 紫式部は中宮彰子(道長の娘)に、清少納言は中宮定子(道隆の娘)に仕えた
- 国風文化は大陸との交流が途絶えて生まれたのではない。取り入れた文化を消化して、日本風に作り変えた
1. かな文字と文学
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(イ)
漢字をもとにしたかな文字が広まり、日本語の気持ちを細やかに書き表せるようになりました。
宮廷に仕える女性たちが、かなを使って多くの優れた作品を残しました。
平がなと片かなは、それぞれどのようにしてつくられたか?
平がなは万葉仮名の草書体をくずして、片かなは漢字の一部をとってつくられた
かなの普及で、日本語の話し言葉に近い文章が書けるようになった。
905 年に醍醐天皇の命でまとめられた、最初の勅撰和歌集は?
『古今和歌集』
撰者の一人は紀貫之。天皇の命でつくる歌集ができたことは、和歌が漢詩と並ぶ公の文学になったことを示す。
紀貫之が、女性が書いたという形をとり、かなで書いた日記は?
『土佐日記』
国司の任期を終えて土佐から都へ帰る旅を書いたもの。
中宮彰子に仕えた女性が書いた長編の物語と、その作者は?
『源氏物語』、紫式部
光源氏を主人公に、貴族の暮らしと心の動きを描いた。
中宮定子に仕えた清少納言が、宮廷の暮らしなどを鋭い感覚でつづった随筆は?
『枕草子』
紫式部と清少納言は、それぞれ別の后に仕えた。
2. 浄土教の広がり
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(イ)
10 世紀ごろから、阿弥陀仏を信じて念仏を唱え、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う浄土教が広まりました。
社会の不安と末法思想が、その広がりを後押ししました。
10 世紀中ごろ、京の市で念仏をすすめ、「市聖」と呼ばれた僧は?
空也
庶民に浄土教を広めた。
985 年に源信(恵心僧都)が著し、極楽往生のための念仏の方法を説いた書物は?
『往生要集』
地獄と極楽の様子を描き、貴族たちに大きな影響を与えた。
浄土教が 11 世紀に貴族の間でいっそう広まった背景にある、仏教の考え方は?
末法思想(釈迦の死後、仏の教えが衰える世が来るという考え)
日本では 1052 年から末法の世に入るとされ、人々の不安が高まった。
平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像をつくった仏師と、その仏像のつくり方は?
定朝、寄木造
体の部分ごとに別の木でつくって組み合わせる技法で、大きな仏像を効率よくつくれた。
仏が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れたとする考え方は?
本地垂迹説
神と仏を結びつける神仏習合が進んだ。このほか、怨霊や疫病をしずめるための御霊会も盛んに行われた。
3. 貴族の住まいと美術
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(イ)
貴族の暮らしの場も日本風に整えられ、日本の風景や人々を描く絵が生まれました。
平安時代の貴族の住まいで、白木造・檜皮葺の建物を廊下でつなぎ、庭に池を配した建築様式は?
寝殿造
建物の中の襖や屏風には大和絵が描かれた。
中国風の唐絵に対して、日本の風景や人々を題材にした、なだらかな線と上品な色の絵を何という?
大和絵
阿弥陀仏が極楽から迎えに来る様子を描いた来迎図も、浄土教の広がりとともに描かれた。
小野道風・藤原佐理・藤原行成の 3 人の書の名人を何という?
三跡
優美な日本風の書(和様)の名手。唐風の三筆と対になる。