弥生文化の成立
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」A (1) ア (ア) の「弥生文化の成立」に当たります。
水稲耕作と金属器が伝わったことで、人々の暮らしが食料を「とる」から「つくる」へ変わり、ムラどうしの争いや身分の差が生まれていく流れを押さえます。
0. 何を押さえるか
弥生文化は、朝鮮半島から九州北部に伝わった水稲耕作と金属器を土台にした文化です。
始まりの年代は、これまで紀元前 4 世紀ごろとされてきましたが、紀元前 10 世紀ごろまでさかのぼるとする説もあり、研究者の間で見方が分かれています。
| 縄文文化 | 弥生文化 | |
|---|---|---|
| 食料 | 狩り・採集・漁労(とる) | 水稲耕作が中心(つくる) |
| 新しい道具 | 土器・弓矢・磨製石器 | 金属器(青銅器・鉄器)、石包丁 |
| 土器 | 縄文土器(厚手・黒褐色が多い) | 弥生土器(薄手・赤褐色) |
| 集落 | 定住の集落 | 環濠集落・高地性集落も現れる |
| 社会 | 貧富・身分の差ははっきりしない | 貧富・身分の差が生まれる |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 弥生文化は列島全体に広がったわけではない。北海道では続縄文文化、南西諸島では貝塚文化が続いた
- 青銅器は主にまつりの道具、鉄器は実用の道具。同じ金属器でも使い道が違う
- 弥生土器の名は、東京の本郷弥生町で見つかったことから。時代の名が土器の名から来ている
1. 水稲耕作と金属器
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(1)-ア-(ア)
水稲耕作は、朝鮮半島を経て九州北部に伝わり、やがて西日本から東日本へ広がりました。
同じころ、青銅器と鉄器も伝わりました。
縄文時代の終わりごろの水田跡が見つかり、水稲耕作が九州北部から始まったことを示す遺跡の例は?
佐賀県の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡
弥生土器が出てくる前の地層から水田跡が見つかった。
弥生時代に、稲の穂先を摘み取る穂首刈りに使われた石器は?
石包丁
収穫した稲は、ねずみや湿気を防ぐため高床倉庫に納めた。
弥生文化が及ばず、狩りや漁を中心とする文化が続いた地域とその文化の名は?
北海道の続縄文文化、南西諸島の貝塚文化
水稲耕作に向かない気候や環境のため、それぞれ独自の暮らしが続いた。
弥生時代の金属器のうち、銅鐸・銅剣・銅矛などの青銅器は主に何に使われたか?
まつりの道具(祭器)
銅鐸は近畿地方、銅矛は九州北部を中心に分布し、地域ごとにまつりのかたちが違っていたと考えられている。
弥生時代の鉄器は、青銅器と比べて主に何に使われたか?
工具や農具、武器などの実用の道具
鉄は硬くて丈夫なので、木を加工する工具などに使われた。
2. ムラからクニへ
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(1)-ア-(ア)
水稲耕作によって蓄えができると、水や土地、蓄えをめぐってムラどうしの争いが起きるようになりました。
争いを通して、いくつかのムラをまとめる「クニ」が生まれていきます。
弥生時代に、まわりを深い濠で囲んで守りを固めた集落を何という?
環濠集落
佐賀県の吉野ヶ里遺跡が代表例。濠や柵は、ムラどうしの争いに備えたものと考えられている。
弥生時代に、見晴らしのよい山の上や丘の上につくられた集落を何という?
高地性集落
瀬戸内海沿岸などに多く、戦いに備えた見張りや逃げ場の役割があったと考えられている。
弥生時代にムラどうしの争いが起きるようになったのはなぜか?
水稲耕作で、水や耕地、蓄えた食料をめぐる利害が生まれたから
矢じりが刺さった人骨や、首のない人骨も見つかっている。争いの中から、周りのムラを従えるクニが生まれた。
静岡県にある、水田跡や高床倉庫の跡が見つかった弥生時代の代表的な遺跡は?
登呂遺跡
戦後まもなく発掘され、弥生時代の稲作の村の姿を広く知らせた。
3. 身分差の始まり
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(1)-ア-(ア)
弥生時代の墓からは、副葬品を多く持つ墓と持たない墓が見つかり、人々の間に差が生まれたことが分かります。
縄文時代の原始社会とのいちばんの違いです。
弥生時代の墓の副葬品に差があることから分かる社会の変化は?
貧富の差や身分の差が生まれたこと
青銅器や鏡などを多く納めた墓は、ムラやクニを率いた有力者のものと考えられている。
九州北部で多く見られる、大きな土器を棺にした弥生時代の墓は?
甕棺墓
中に中国製の鏡などを納めた甕棺もあり、有力者が中国とつながりを持っていたことをうかがわせる。
弥生時代の後期に西日本などで現れた、盛り土をした大きな墓を何という?
墳丘墓
岡山県の楯築墳丘墓が有名。有力者の力が強まったことを示し、のちの古墳へつながっていく。