小国の分立と邪馬台国
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」A (3) ア (ア) の「国家の形成」の始まりに当たります。
日本列島にまだ文字の記録がないころの小国(クニ)の姿を、中国の歴史書がどう書き残しているかを押さえます。
0. 何を押さえるか
弥生時代の日本列島には多くの小国が分かれて立っていました。その様子は、中国の歴史書に「倭」として記されています。
小国の王たちは、中国の皇帝に使いを送って権威を得ようとしました。
| 歴史書 | 書かれている時期 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 『漢書』地理志 | 紀元前 1 世紀ごろ | 倭人は百余国に分かれ、楽浪郡に定期的に使いを送る |
| 『後漢書』東夷伝 | 1〜2 世紀 | 57 年に奴国王が使いを送り印綬を受ける。107 年に倭国王帥升らが生口を献上。のち倭国大乱 |
| 「魏志」倭人伝(『三国志』) | 3 世紀 | 邪馬台国の卑弥呼が約 30 国を従える。239 年に魏へ使いを送る |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 奴国は 1 世紀(後漢)、邪馬台国は 3 世紀(魏)。使いを送った相手の王朝が違う
- 「漢委奴国王」の金印は奴国王が後漢の光武帝から受けたもの。卑弥呼が魏から受けたのは「親魏倭王」の称号
- 邪馬台国がどこにあったかは、近畿説と九州説があり、決着していない
1. 中国の史書に見える倭の小国
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)
中国の漢は朝鮮半島に楽浪郡などを置き、周りの国々に影響を広げていました。
倭の小国の王たちは、中国に使いを送ることで、ほかの小国より優位に立とうとしました。
紀元前 1 世紀ごろの倭について、「百余国に分かれ、楽浪郡に定期的に使いを送っていた」と記す中国の歴史書は?
『漢書』地理志
倭についての最も古い記録の一つ。楽浪郡は漢が朝鮮半島に置いた拠点。
57 年、後漢の都洛陽に使いを送り、光武帝から印綬を受けたのは倭のどの国の王か?
奴国(『後漢書』東夷伝)
奴国は今の福岡市付近にあった小国と考えられている。
江戸時代に福岡県の志賀島で見つかった、「漢委奴国王」と刻まれた金印は何を示すと考えられているか?
『後漢書』東夷伝が記す、奴国王が光武帝から受けた印
記録と実物がつながる例として重要。
『後漢書』東夷伝が記す、2 世紀後半に倭で起きた争乱を何という?
倭国大乱
107 年に倭国王帥升らが生口(奴隷と考えられる人々)を献上したという記事の後、倭では長く争いが続いたとされる。
2. 邪馬台国と卑弥呼
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)
倭国大乱のあと、小国たちは共同で邪馬台国の卑弥呼を女王に立て、争いはおさまりました。
その様子は「魏志」倭人伝にくわしく書かれています。
「魏志」倭人伝によると、邪馬台国の女王卑弥呼はどのように国を治めたか?
鬼道(呪術)によって人々を従えた
卑弥呼は人前にあまり姿を見せず、弟が政治を助けたと記されている。宗教的な権威が政治の力と結びついていた。
239 年、卑弥呼が使いを送った中国の王朝と、そこから与えられた称号は?
魏、「親魏倭王」
金印紫綬や銅鏡 100 枚などを与えられた。使いは朝鮮半島の帯方郡を経て魏の都へ向かった。
「魏志」倭人伝によると、邪馬台国と対立して争った国は?
狗奴国
卑弥呼は魏に使いを送り、狗奴国との争いの様子を伝えている。
卑弥呼の死後、邪馬台国ではどうなったか?
男の王が立つと国内が乱れ、一族の女性壱与(台与)を王に立てておさまった
266 年に晋へ使いを送った倭の女王は、壱与と考えられている。
3. 邪馬台国の社会と国家の形成
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)
「魏志」倭人伝からは、邪馬台国にはすでに身分の差や税、市があったことが分かります。
小国の連合から、より大きなまとまりへと国家の形成が進んでいく途中の姿です。
「魏志」倭人伝に見える、邪馬台国の身分の呼び名は?
大人と下戸(そのほか奴婢もいた)
下戸は大人に道で出会うと、道端に退いて敬意を示したと記されている。
「魏志」倭人伝によると、邪馬台国が諸国を監視するために伊都国に置いた役人は?
一大率
邪馬台国を中心に、小国をまとめる仕組みがあったことを示す。租税を納める仕組みや市もあったと記されている。
邪馬台国の所在地をめぐる 2 つの説と、それぞれが意味することは?
近畿説なら近畿から九州北部までの連合、九州説なら九州北部の範囲の連合
近畿説をとると、邪馬台国がのちのヤマト政権につながると考えやすくなる。どちらの説も決め手を欠いている。
倭の小国の王たちが中国の王朝に使いを送ったのはなぜか?
中国の皇帝の権威を後ろ盾にして、ほかの小国より優位に立つため
先進的な文物を手に入れる目的もあった。中国の皇帝から王として認められることを冊封という。