建武の新政と南北朝の動乱
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」B (3) ア (イ) の「武家政権の変容」に当たります。鎌倉幕府が倒れたあと、後醍醐天皇の親政が短く終わり、
足利尊氏が開いた幕府のもとで朝廷が南北に分かれて争うなか、各国の守護が力を伸ばしていった過程を押さえます。
0. 何を押さえるか
鎌倉幕府の滅亡(1333 年)から、南北朝の争いが長引くまでの流れです。天皇中心の政治をめざした建武の新政は武士の不満を招いて 3 年足らずで崩れ、
その後の半世紀以上の内乱のなかで、武家政権は「守護が国を束ねる」形へと変わっていきました。
| 建武の新政 | 室町幕府の出発(南北朝の動乱期) | |
|---|---|---|
| 中心人物 | 後醍醐天皇 | 足利尊氏(弟の直義が政務を分担) |
| 拠点 | 京都 | 京都(北朝を立てる) |
| 土地の保証 | 天皇の綸旨がないと認めない | 幕府が武士の所領を保証する |
| 基本方針 | 天皇の親政、公家を重んじる | 建武式目(1336 年) |
| 結末 | 1336 年に崩れ、後醍醐天皇は吉野へ | 南北朝の対立が 1392 年まで続く |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 建武式目は法典ではなく、幕府を開く方針を示したもの。鎌倉幕府の御成敗式目は引き続き幕府の基本法として使われた
- 吉野に移ったのが南朝(後醍醐天皇の系統)、京都にあったのが北朝(尊氏が立てた光明天皇の系統)
- 半済令は年貢の半分を兵粮として武士に与える法。はじめは地域と期間を限ったが、守護が国内の武士を従える手段になった
1. 建武の新政
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
後醍醐天皇は、足利高氏(のちの尊氏)や新田義貞らの力を借りて鎌倉幕府を倒し、天皇がみずから政治を行う体制をめざしました。
1333 年に鎌倉幕府が滅んだあと、後醍醐天皇が始めた天皇中心の政治を何という?
建武の新政
翌 1334 年に元号を「建武」と改めたことからこう呼ぶ。摂政・関白を置かず、天皇がみずから政治を行う形をめざした。
建武の新政で、所領をめぐる訴訟を扱うために置かれた機関は?
雑訴決断所
中央には重要な政務を扱う記録所も置かれた。訴訟が殺到して処理が追いつかず、混乱を招いた。
建武の新政が武士の不満を招いた主な理由は?
所領の保証に天皇の綸旨を必要とし、恩賞も公家に厚く武士に薄かったから
武士社会の慣習を無視したやり方が反発を呼んだ。当時の京都の混乱ぶりは「二条河原落書」に皮肉られている。
1335 年、北条高時の子の時行が鎌倉を一時奪った反乱は?
中先代の乱
これを鎮めるために関東へ下った足利尊氏が、そのまま新政に背いた。
2. 南北朝の分裂
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
足利尊氏は京都を押さえて新しい天皇を立て、幕府を開く方針を示しました。後醍醐天皇が吉野へ逃れたことで、二つの朝廷が並び立つ時代になります。
1336 年、足利尊氏が京都で立てた北朝の天皇は?
光明天皇
同じ年、後醍醐天皇は大和の吉野に移って自分こそ正統だと主張し、南朝を開いた。
1336 年、足利尊氏が幕府を開くにあたって政治の方針を示したものは?
建武式目
17 か条からなり、幕府の所在地や政治の心得を示した。裁判の基準となる法は、引き続き御成敗式目だった。
足利尊氏が征夷大将軍に任じられたのは何年か?
1338 年
幕府の成立を 1336 年(建武式目)とみるか 1338 年とみるかは、何を開幕の指標にするかで変わる。
1350 年ごろから、足利尊氏と弟の直義が争い、幕府が二つに割れた内紛を何という?
観応の擾乱
尊氏の執事の高師直と直義の対立に始まった。争う双方が南朝と結ぶこともあり、内乱が長引く一因になった。
3. 守護の権限の拡大
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
内乱が長く続いたのは、武士の家のあり方が変わり、一族のなかでも争いが起きやすくなっていたためでもあります。
幕府は地方の武士を味方につけるため守護の権限を広げ、守護は国の支配者へと成長していきました。
南北朝の動乱が長引いた背景にある、武士の相続のあり方の変化は?
分割相続から、嫡子がすべてを継ぐ単独相続に変わり、惣領制がゆるんだこと
一族の結びつきが弱まり、家の中や一族の間の対立が南朝・北朝に分かれて争う形になった。
鎌倉時代の守護の権限(大犯三カ条)に加えて、室町幕府が守護に与えた権限を 2 つ挙げると?
刈田狼藉の取り締まりと、使節遵行
刈田狼藉は所領争いで他人の田の稲を刈り取る実力行使。使節遵行は幕府の裁判の判決を現地で強制的に実行すること。
1352 年に出された半済令は、どんな内容の法か?
荘園・公領の年貢の半分を、兵粮として守護が武士に分け与えることを認めた
はじめは近江・美濃・尾張の 3 国で 1 年限りだったが、のちに全国に広がり、恒常的なものになった。
荘園や公領の領主が、年貢の徴収を守護に請け負わせたしくみを何という?
守護請
守護は国内の荘園・公領への支配を強めた。こうして国全体を支配するようになった守護を守護大名と呼ぶ。
南北朝の動乱で、武家政権はどのように変容したか?
幕府が権限を広げた守護を通じて、地方の武士を組織する体制になった
鎌倉幕府は将軍と御家人が御恩と奉公で直接結びついていた。室町幕府では、守護が国内の武士(国人)を家臣にしていった。