室町幕府の仕組みと守護大名
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」B (3) ア (イ) の「武家政権の変容」のうち、室町幕府の支配のしくみを扱います。
3 代将軍足利義満のもとで南北朝が合一し、幕府は有力な守護大名の連合のうえに立つ政権として安定しました。
0. 何を押さえるか
室町幕府は、将軍を有力守護が支える形の政権でした。義満は強大な守護を討って将軍の力を高めましたが、
6 代義教が強引な政治の末に殺されると、将軍の権威はゆらいでいきます。
| 鎌倉幕府 | 室町幕府 | |
|---|---|---|
| 将軍を補佐する最高職 | 執権(北条氏) | 管領(細川・斯波・畠山の三管領) |
| 東国の支配 | 幕府そのものが鎌倉にある | 鎌倉府(鎌倉公方と関東管領) |
| 京都・西国の押さえ | 六波羅探題 | 幕府が京都にある(九州には九州探題) |
| 地方の担い手 | 守護・地頭(御家人) | 守護大名 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 室町幕府の「管領」は将軍の補佐役、鎌倉府の「関東管領」は鎌倉公方の補佐役(上杉氏)。同じ「管領」でも別の職
- 侍所の長官(所司)は山名・赤松・一色・京極の四職から出た。三管領と四職を混ぜない
- 義満は守護を「弱らせた」のであって、守護そのものをなくしたのではない。守護大名の連合という骨組みは変わらなかった
1. 幕府の機構と財源
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
幕府の中心は京都に置かれ、東国には別に鎌倉府が置かれました。財源は将軍の直轄領だけでは足りず、商業や交通からの税に頼るところが大きかったのが特徴です。
室町幕府で将軍を補佐し、政務をまとめた最高の職は?
管領
細川・斯波・畠山の 3 氏が交代で就いたので三管領と呼ぶ。鎌倉幕府の執権に当たる位置だが、就く家は一つではない。
室町幕府が関東 8 か国と伊豆・甲斐を治めさせるために置いた機関と、その長は?
鎌倉府、鎌倉公方
鎌倉公方は足利尊氏の子の基氏の子孫が継ぎ、それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。鎌倉公方はしだいに京都の幕府と対立するようになった。
室町幕府の財源として、京都の高利貸しに課した税は?
土倉役・酒屋役
ほかに直轄領(御料所)からの収入、関所で取る関銭、臨時に国ごとに課す段銭・棟別銭などがあった。商業の富に頼る点が鎌倉幕府との違い。
将軍の直属の軍事力として組織され、御料所の管理にも当たった武士たちを何という?
奉公衆
将軍が守護大名に頼らずに動かせる力として置かれた。
2. 足利義満と南北朝の合一
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
3 代将軍義満の時代に、幕府は最も安定しました。義満は京都の室町に御所を構え、朝廷の権限も取り込みながら、力の強すぎる守護を抑えていきました。
南北朝の合一が実現したのは何年、どの将軍のときか?
1392 年、足利義満
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を譲る形で合一した。
1391 年、足利義満が、一族で 11 か国の守護を兼ねた山名氏を討った戦いは?
明徳の乱
山名氏は「六分一殿」と呼ばれるほどの勢力だった。討たれた山名氏清のあと、一族の領国は大きく減らされた。
1399 年、足利義満が、周防など 6 か国の守護で朝鮮との貿易でも富を得ていた大内義弘を討った戦いは?
応永の乱
義満は明徳の乱・応永の乱で有力守護の力を削り、将軍の権力を高めた。
足利義満が、武家でありながら公家の最高の地位に就いたことを示す官職は?
太政大臣(1394 年)
将軍職を子の義持に譲ったあとも実権を握り、朝廷と幕府の両方を従える地位を築いた。
3. 守護大名
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
南北朝の動乱で権限を広げた守護は、国内の武士を家臣に組み込み、国をまるごと支配するようになりました。
室町時代、国内の武士(国人)を家臣にし、国全体を支配するようになった守護を何という?
守護大名
鎌倉時代の守護は、軍事と警察の役目を担う役職にとどまっていた。室町時代の守護は、国の支配者へと変わっていた。
守護大名の多くが自分の国を離れて京都に住んだため、領国で守護の代わりを務めた者は?
守護代
守護大名は原則として京都に住み、幕府の政治に加わった。領国の実際の支配を担った守護代が、のちに主家をしのぐこともあった。
地方の武士である国人が、守護の支配に対抗したり地域の問題を解決したりするために結んだものは?
国人一揆
国人たちは契約を結んで互いに協力した。守護大名にとって、国人を従えられるかどうかが支配の要だった。
4. 将軍権力のゆらぎ
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
6 代将軍義教は、将軍の権威を回復しようと強い態度で臨みましたが、その強引さが守護の反発を呼びました。
1438 年、6 代将軍足利義教が、幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を討った戦いは?
永享の乱
関東管領の上杉憲実と持氏の対立がきっかけ。持氏は翌年自害し、鎌倉府は一時途絶えた。
1441 年、6 代将軍足利義教が播磨などの守護赤松満祐に殺された事件は?
嘉吉の変
守護を次々と抑えつけた義教を、次は自分だと恐れた満祐が殺した。以後、将軍の権威は大きく低下した。