太平洋戦争と国民生活
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」D (3) ア (ウ) のうち、戦時体制の強化と第二次世界大戦下の国民生活を扱います。
内容の取扱いは、第二次世界大戦が人類全体に惨禍を及ぼしたことを基に、平和で民主的な国際社会の実現に努めることの大切さを認識させるよう求めています。
戦争は兵士だけでなく、日本の国民、植民地や占領地の人々、そして戦った相手国の人々の暮らしと命を大きく損ないました。このノートは、開戦に至る経緯と戦局の推移を、人々の暮らしの側からも押さえます。
0. 何を押さえるか
太平洋戦争は、開戦から 1 年足らずで攻守が入れ替わりました。
| 年 | 戦局 | 国内・国民生活 |
|---|---|---|
| 1941 | 12 月、マレー半島上陸と真珠湾攻撃で開戦 | 米の配給制(大都市) |
| 1942 | 6 月、ミッドウェー海戦で敗れ、攻勢が止まる | 翼賛選挙 |
| 1943 | 2 月、ガダルカナル島から撤退 | 学徒出陣 |
| 1944 | 7 月、サイパン島が陥落し、東条英機内閣が総辞職 | 学童疎開、本土空襲の本格化 |
| 1945 | 3 月、東京大空襲。4 月、沖縄本島に米軍上陸。8 月、原子爆弾の投下とソ連の参戦、ポツダム宣言受諾 | 空襲で都市の多くが焼失 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 戦局の転換点はミッドウェー海戦(1942)。サイパン島の陥落(1944)は本土空襲が本格化するきっかけ
- ポツダム宣言はアメリカ・イギリス・中国の名で出された。ソ連は参戦後に加わった
- ソ連の参戦は日ソ中立条約の有効期間中で、ヤルタ会談での秘密の取り決めにもとづく
1. 南進と日米交渉
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
1939 年 9 月、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まりました。日本ははじめ大戦に介入しない方針でしたが、ドイツの優勢を見て、資源を求め南方へ進む道を選びます。
1940 年、第 2 次近衛文麿内閣が北部仏印進駐とほぼ同時に結んだ軍事同盟は?
日独伊三国同盟
アメリカを仮想敵とするもので、日米関係は決定的に悪化した。アメリカは屑鉄などの対日輸出を禁止した。
1941 年 4 月、北方の安全を確保して南進に備えるため、外相松岡洋右がモスクワで結んだ条約は?
日ソ中立条約
同じ月から、野村吉三郎駐米大使とハル国務長官の間で日米交渉も始まった。
1941 年 7 月の南部仏印進駐に対し、アメリカがとった経済的な措置は?
在米日本資産の凍結と、日本への石油の輸出禁止
イギリス・オランダも同調した。石油の大部分をアメリカからの輸入に頼っていた日本は、追い詰められた。軍部はこれを「ABCD 包囲陣」と呼んで国民の危機感をあおった。
1941 年 11 月、アメリカが日本に示し、日本政府が最後通告と受けとめて開戦を決めた提案は?
ハル・ノート
中国と仏印からの全面撤兵、汪兆銘政権の否認などを求めた。首相はこの年の 10 月に近衛文麿から東条英機に代わっていた。
1941 年 12 月 8 日、日本軍が行った開戦時の 2 つの作戦は?
イギリス領マレー半島への上陸と、ハワイの真珠湾への奇襲攻撃
日本はアメリカ・イギリスに宣戦した。政府は日中戦争も含めてこの戦争を「大東亜戦争」と呼んだ。
2. 戦局の転換と占領地
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
開戦から半年ほどで、日本軍は東南アジアから太平洋の広い範囲を占領しました。日本は「大東亜共栄圏」の建設を掲げましたが、実際には資源の獲得が目的でした。
1942 年 6 月、日本海軍が主力の航空母艦 4 隻を失い、戦局の転換点となった戦いは?
ミッドウェー海戦
これ以後、アメリカ軍の反攻が始まり、1943 年 2 月には日本軍がガダルカナル島から撤退した。
戦時中、朝鮮や台湾で、日本語の使用や神社への参拝を強い、朝鮮では日本式の氏名に改めさせた政策を何という?
皇民化政策
朝鮮で日本式の氏名を名のらせたことを創氏改名という。朝鮮や中国の人々は日本本土の鉱山や工場に動員され、戦争末期には朝鮮・台湾でも徴兵制が実施された。
日本の占領下の東南アジアで、住民の反発を強めた日本軍の政策の例を挙げよ。
物資の徴発や、鉄道建設などへの住民の強制的な労働の動員
タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設では、住民や連合軍の捕虜が過酷な労働で多数亡くなった。各地で抗日運動が起こった。
3. 戦時下の国民生活
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
兵力と労働力の不足を補うため、学生や女性、子どもまでが戦争に動員されました。食料や衣料は極度に不足し、国民生活は追い詰められていきます。
1943 年、それまで認められていた大学などの文科系学生の徴兵猶予を停止し、在学中の学生を軍に入隊させたことを何という?
学徒出陣
理工系や教員養成系の学生は猶予が続いた。中学生以上の生徒や女性は軍需工場などに勤労動員された。
1944 年から、空襲を避けるため、都市の国民学校の児童を学校ごとに地方へ移したことを何という?
学童疎開(集団疎開)
サイパン島が陥落すると、そこを基地とするアメリカ軍の大型爆撃機による本土空襲が本格化した。
1945 年 3 月 10 日、アメリカ軍の爆撃機が夜間に焼夷弾を大量に投下し、下町を中心に多くの住民が亡くなった空襲は?
東京大空襲
その後も大阪・名古屋など全国の都市が空襲を受け、多くの市民が犠牲になった。死者の数は資料によって幅がある。
4. 沖縄戦とポツダム宣言
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
1945 年 5 月にドイツが降伏し、日本は孤立しました。それでも軍は本土決戦を唱え、戦争の終わりは遅れました。
1945 年 4 月にアメリカ軍が本島に上陸し、住民を巻き込んだ地上戦が 6 月下旬まで続いた戦いは?
沖縄戦
男子生徒の鉄血勤皇隊や、女子生徒のひめゆり学徒隊なども戦場に動員された。県民の犠牲はきわめて大きかった。
1945 年 7 月、日本に無条件降伏を求めて出された宣言と、その名を連ねた国は?
ポツダム宣言。アメリカ・イギリス・中国
鈴木貫太郎内閣はすぐには受け入れず、8 月 6 日に広島、9 日に長崎へ原子爆弾が投下された。8 日にはソ連が日ソ中立条約を無視して宣戦し、満州などに侵攻した。
日本がポツダム宣言の受諾を国民に知らせた日と、降伏文書に調印した日は?
1945 年 8 月 15 日に天皇のラジオ放送で国民に知らせ、9 月 2 日に降伏文書に調印した
受諾は 8 月 14 日に決定した。降伏文書は東京湾のアメリカ戦艦ミズーリ号の上で調印された。
戦争による死者は、日本人だけで軍人・民間人を合わせておよそ 310 万人とされ、アジアの諸地域の犠牲はそれを大きく上回るとされます(推計には幅があります)。
この惨禍を知ることは、平和で民主的な国際社会の実現に努めることの大切さを考える出発点になります。