みならいノート

日本史探究 2027年度版

大化改新から律令国家へ

みならいノートで覚える(無料)

このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。

学習指導要領「日本史探究」A (3) ア (ア) の「律令体制の成立過程」の中心に当たります。
7 世紀半ばから 8 世紀初めにかけて、豪族の連合だったヤマト政権が、天皇を中心に律令で治める国家へ変わっていく道筋を押さえます。

0. 何を押さえるか

唐が強大な国家をつくり、朝鮮半島にも力を伸ばすなかで、倭は国の仕組みを急いで固める必要に迫られました。
その道筋は、乙巳の変 → 白村江の敗戦 → 壬申の乱 → 天武・持統朝の整備 → 大宝律令、と進みます。

年 出来事 中心人物 何が変わったか
645 乙巳の変 中大兄皇子・中臣鎌足 蘇我本宗家が滅び、改革(大化改新)が始まる
663 白村江の戦い 中大兄皇子(のちの天智天皇) 唐・新羅に敗れ、国防と国内の整備を急ぐ
672 壬申の乱 大海人皇子(天武天皇) 勝った天武天皇のもとで天皇の力が強まる
694 藤原京に遷都 持統天皇 初めての本格的な都城
701 大宝律令 刑部親王・藤原不比等 律と令がそろい、律令国家の仕組みが整う

取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。

1. 乙巳の変と大化改新

根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)

蘇我入鹿は厩戸王の子の山背大兄王を滅ぼすなど、強い権力をふるっていました。
これに反発した中大兄皇子らが蘇我氏を倒し、唐にならった中央集権の国づくりを始めます。

645 年、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした事件は?

乙巳の変

これに続いて孝徳天皇が即位し、都を難波に移して改革を進めた。これを大化改新という。

改新の詔で示された、豪族が私有していた土地と人民をどうするという方針は?

公地公民(国家のものとする)

屯倉や田荘、部曲などの私有をやめるという方針。このほか地方の行政区画、戸籍・計帳・班田収授、新しい税の仕組みを示した。

改新の詔(646 年)の文面について、『日本書紀』の記述をそのまま信じられないとされるのはなぜか?

のちの大宝令の用語で書き直された部分があると考えられるから

たとえば地方の単位は、藤原宮跡などの木簡から、大宝令の前は「郡」ではなく「評」と書かれていたことが分かっている。

2. 白村江の戦いと天智天皇

根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)

660 年に百済が唐と新羅に滅ぼされると、倭は百済の復興を助けるため大軍を送りました。
その敗北は、国内の守りと仕組みを固める大きなきっかけになりました。

663 年、百済復興を助けるために送った倭の軍が、唐・新羅の連合軍に大敗した戦いは?

白村江の戦い

この後、朝鮮半島からは手を引き、国の守りを固めることに力を注いだ。

白村江の敗戦のあと、唐・新羅の攻撃に備えて九州北部などに設けた守りは?

水城と、大野城・基肄城などの朝鮮式山城、防人や烽

水城は大宰府を守る土塁と堀。亡命してきた百済の人々の技術で山城が築かれた。

天智天皇が 670 年につくった、初めての全国的な戸籍は?

庚午年籍

天智天皇は 667 年に都を近江大津宮に移し、翌年に即位した。

3. 壬申の乱と天武・持統朝

根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)

天智天皇の死後、皇位をめぐる争いに勝った天武天皇は、大きな権威を背景に天皇中心の仕組みを整えました。
その仕事は、妻の持統天皇に受け継がれました。

672 年の壬申の乱で争った 2 人と、勝った側は?

大友皇子と大海人皇子。勝ったのは大海人皇子(天武天皇として即位)

大海人皇子は東国の豪族の力を集めて勝った。有力な中央豪族の多くが大友皇子側について没落したことで、天皇の権力が強まった。

天武天皇が 684 年に定めた、豪族を天皇中心の新しい身分秩序に組み直すための 8 つの姓は?

八色の姓

真人・朝臣などの上位の姓を皇族に近い氏族に与え、豪族を序列づけた。

天武天皇の時代に始まった国家事業の例は?

飛鳥浄御原令の編纂、国の歴史書の編纂、富本銭の鋳造

「天皇」という称号が使われ始めたのも、このころと考えられている。

持統天皇が 690 年につくり、6 年ごとに戸籍をつくる仕組みの起点となった戸籍は?

庚寅年籍

689 年には飛鳥浄御原令を施行した。班田収授はこの戸籍をもとに進められた。

694 年に持統天皇が移った、中国の都にならった本格的な都城は?

藤原京

碁盤の目のように道で区切る条坊制をとり、天皇の宮の周りに役人たちが住むようにした。

4. 大宝律令と律令体制の完成

根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)

大宝律令が完成して、律と令の両方がそろった律令体制ができあがりました。
律令にもとづいて天皇と中央の役所が全国を治める国を、律令国家といいます。

701 年に完成した大宝律令の編纂の中心になった人物は?

刑部親王と藤原不比等

文武天皇のもとで完成した。藤原不比等は中臣鎌足の子。

律令の「律」と「令」は、それぞれ何を定めたものか?

律は刑罰の決まり、令は役所の仕組みや人々の税・労役などの決まり

唐の律令にならったが、日本の実情に合わせて変えた部分もある。

718 年に藤原不比等らがまとめた律令と、それが施行された時期は?

養老律令、757 年に施行

施行したのは藤原仲麻呂。内容は大宝律令と大きくは変わらない。

このノートの 14 問を、暗記カードで復習できます

みならいノートで覚える(無料)

答えを隠して出題し、忘れそうなころにもう一度出します。

前 推古朝と飛鳥文化
律令の統治制度と土地・税 次

このノートは無償で公開しています。当方は内容の正確性・完全性・最新性を保証しません。学習にあたっては、法令の原文・公式の出題範囲その他の一次資料を必ずご確認ください。試験への合格その他の効果を保証するものでもありません。

本文の転載・再配布はお断りしています(利用規約)。手元に置いて使いたい方は、ストアから Markdown ファイルとして入手できます。