大化改新から律令国家へ
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」A (3) ア (ア) の「律令体制の成立過程」の中心に当たります。
7 世紀半ばから 8 世紀初めにかけて、豪族の連合だったヤマト政権が、天皇を中心に律令で治める国家へ変わっていく道筋を押さえます。
0. 何を押さえるか
唐が強大な国家をつくり、朝鮮半島にも力を伸ばすなかで、倭は国の仕組みを急いで固める必要に迫られました。
その道筋は、乙巳の変 → 白村江の敗戦 → 壬申の乱 → 天武・持統朝の整備 → 大宝律令、と進みます。
| 年 | 出来事 | 中心人物 | 何が変わったか |
|---|---|---|---|
| 645 | 乙巳の変 | 中大兄皇子・中臣鎌足 | 蘇我本宗家が滅び、改革(大化改新)が始まる |
| 663 | 白村江の戦い | 中大兄皇子(のちの天智天皇) | 唐・新羅に敗れ、国防と国内の整備を急ぐ |
| 672 | 壬申の乱 | 大海人皇子(天武天皇) | 勝った天武天皇のもとで天皇の力が強まる |
| 694 | 藤原京に遷都 | 持統天皇 | 初めての本格的な都城 |
| 701 | 大宝律令 | 刑部親王・藤原不比等 | 律と令がそろい、律令国家の仕組みが整う |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 乙巳の変は 645 年の蘇我氏打倒という事件、大化改新はそれに続く一連の改革。同じものではない
- 壬申の乱は天智天皇の死後、その子の大友皇子と弟の大海人皇子が争った。勝ったのは弟の大海人皇子
- 律は刑罰の決まり、令は政治の仕組みや人々の務めの決まり
1. 乙巳の変と大化改新
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)
蘇我入鹿は厩戸王の子の山背大兄王を滅ぼすなど、強い権力をふるっていました。
これに反発した中大兄皇子らが蘇我氏を倒し、唐にならった中央集権の国づくりを始めます。
645 年、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした事件は?
乙巳の変
これに続いて孝徳天皇が即位し、都を難波に移して改革を進めた。これを大化改新という。
改新の詔で示された、豪族が私有していた土地と人民をどうするという方針は?
公地公民(国家のものとする)
屯倉や田荘、部曲などの私有をやめるという方針。このほか地方の行政区画、戸籍・計帳・班田収授、新しい税の仕組みを示した。
改新の詔(646 年)の文面について、『日本書紀』の記述をそのまま信じられないとされるのはなぜか?
のちの大宝令の用語で書き直された部分があると考えられるから
たとえば地方の単位は、藤原宮跡などの木簡から、大宝令の前は「郡」ではなく「評」と書かれていたことが分かっている。
2. 白村江の戦いと天智天皇
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)
660 年に百済が唐と新羅に滅ぼされると、倭は百済の復興を助けるため大軍を送りました。
その敗北は、国内の守りと仕組みを固める大きなきっかけになりました。
663 年、百済復興を助けるために送った倭の軍が、唐・新羅の連合軍に大敗した戦いは?
白村江の戦い
この後、朝鮮半島からは手を引き、国の守りを固めることに力を注いだ。
白村江の敗戦のあと、唐・新羅の攻撃に備えて九州北部などに設けた守りは?
水城と、大野城・基肄城などの朝鮮式山城、防人や烽
水城は大宰府を守る土塁と堀。亡命してきた百済の人々の技術で山城が築かれた。
天智天皇が 670 年につくった、初めての全国的な戸籍は?
庚午年籍
天智天皇は 667 年に都を近江大津宮に移し、翌年に即位した。
3. 壬申の乱と天武・持統朝
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)
天智天皇の死後、皇位をめぐる争いに勝った天武天皇は、大きな権威を背景に天皇中心の仕組みを整えました。
その仕事は、妻の持統天皇に受け継がれました。
672 年の壬申の乱で争った 2 人と、勝った側は?
大友皇子と大海人皇子。勝ったのは大海人皇子(天武天皇として即位)
大海人皇子は東国の豪族の力を集めて勝った。有力な中央豪族の多くが大友皇子側について没落したことで、天皇の権力が強まった。
天武天皇が 684 年に定めた、豪族を天皇中心の新しい身分秩序に組み直すための 8 つの姓は?
八色の姓
真人・朝臣などの上位の姓を皇族に近い氏族に与え、豪族を序列づけた。
天武天皇の時代に始まった国家事業の例は?
飛鳥浄御原令の編纂、国の歴史書の編纂、富本銭の鋳造
「天皇」という称号が使われ始めたのも、このころと考えられている。
持統天皇が 690 年につくり、6 年ごとに戸籍をつくる仕組みの起点となった戸籍は?
庚寅年籍
689 年には飛鳥浄御原令を施行した。班田収授はこの戸籍をもとに進められた。
694 年に持統天皇が移った、中国の都にならった本格的な都城は?
藤原京
碁盤の目のように道で区切る条坊制をとり、天皇の宮の周りに役人たちが住むようにした。
4. 大宝律令と律令体制の完成
根拠: 学習指導要領 日本史探究-A-(3)-ア-(ア)
大宝律令が完成して、律と令の両方がそろった律令体制ができあがりました。
律令にもとづいて天皇と中央の役所が全国を治める国を、律令国家といいます。
701 年に完成した大宝律令の編纂の中心になった人物は?
刑部親王と藤原不比等
文武天皇のもとで完成した。藤原不比等は中臣鎌足の子。
律令の「律」と「令」は、それぞれ何を定めたものか?
律は刑罰の決まり、令は役所の仕組みや人々の税・労役などの決まり
唐の律令にならったが、日本の実情に合わせて変えた部分もある。
718 年に藤原不比等らがまとめた律令と、それが施行された時期は?
養老律令、757 年に施行
施行したのは藤原仲麻呂。内容は大宝律令と大きくは変わらない。