北山文化と東山文化
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」B (3) ア (イ) の内容の取扱いは、「公家や武家,庶民などの文化の形成や融合」に触れるよう求めています。
このノートでは、京都に住んだ将軍と武家が、公家の伝統文化と禅宗を通じて入った中国の文化を取り込み、新しい文化を生んだ過程を扱います。
0. 何を押さえるか
室町幕府が京都に置かれたことで、武家は公家の文化に直接ふれ、それを取り入れました。そこに禅宗の僧がもたらした中国(宋・元・明)の文化が重なります。
3 代将軍義満のころの北山文化は華やかさ、8 代将軍義政のころの東山文化は簡素で深みのある美しさ(幽玄・侘び)が特色です。
| 北山文化 | 東山文化 | |
|---|---|---|
| 時期・中心人物 | 14 世紀末〜15 世紀初め、足利義満 | 15 世紀後半、足利義政 |
| 代表的な建物 | 金閣(鹿苑寺) | 銀閣(慈照寺)、東求堂同仁斎 |
| 建築の特色 | 公家風の寝殿造と禅宗様を重ねる | 書院造(現代の和室のもと) |
| 美術 | 水墨画の始まり(如拙・周文) | 雪舟が日本的な水墨画を大成、枯山水の庭 |
| 芸能・その他 | 観阿弥・世阿弥が能を大成、五山文学 | 侘茶(村田珠光)、生け花 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 金閣は義満(北山)、銀閣は義政(東山)。建てた将軍と文化の名が対応する
- 能を大成したのは観阿弥・世阿弥で、北山文化。能の合間に演じる狂言は、庶民の生活を題材にした別の芸能
- 書院造は東山文化の住宅様式、寝殿造は平安時代の貴族の住宅様式。金閣は寝殿造風の層と禅宗様の層を重ねている
1. 禅宗と五山
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
幕府は臨済宗を保護し、禅宗の僧は政治や外交の相談役、そして中国の文化の担い手となりました。
室町幕府が臨済宗の大寺院を格付けし、保護・統制したしくみを何という?
五山・十刹の制
京都五山と鎌倉五山が置かれ、南禅寺はその上に立つ別格とされた。
五山の禅僧が担った、漢詩文を中心とする文学を何という?
五山文学
義堂周信・絶海中津らが知られる。禅僧は漢文に通じていたため、明との外交文書の作成にも当たった。
禅宗が室町時代の文化に大きな影響を与えたのはなぜか?
禅僧が中国に渡るなどして、水墨画・建築・喫茶など中国の文化を日本に伝えたから
幕府が禅宗を保護したので、武家の文化の中に禅の精神と中国の文化が広く取り込まれた。
2. 北山文化
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
義満が京都の北山に営んだ山荘の金閣は、公家の文化と武家の文化、禅宗の文化が融け合ったこの時代を象徴する建物です。
足利義満が京都の北山に建てた金閣(鹿苑寺)の建築の特色は?
寝殿造風の層の上に、禅宗様の層を重ねている
公家の伝統と禅宗の様式を 1 つの建物に合わせた。公家と武家の文化の融合を示す例。
足利義満の保護を受けて、猿楽を芸術性の高い能に大成した父子は?
観阿弥・世阿弥
大和猿楽の観世座に属した。世阿弥は能の理論書『風姿花伝』を著した。
水墨画の『瓢鮎図』を描いた、北山文化の画僧は?
如拙
禅の問答を題材にした作品。弟子とされる周文とともに、日本の水墨画の基礎を築いた。
3. 東山文化
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
応仁の乱のあと、義政は京都の東山に山荘を営み、そこで簡素さのなかに深い趣を求める文化が育ちました。
足利義政が京都の東山の山荘に建てた、銀閣とともに知られる建物で、書院造の代表とされるものは?
慈照寺の東求堂同仁斎
書院造は、畳を敷き詰め、床の間・違い棚・付書院を備えた様式で、のちの和風住宅のもとになった。
中国で水墨画を学び、帰国後に日本の風景を描いて日本的な水墨画を大成した画僧は?
雪舟
『四季山水図巻』などを描いた。大内氏の城下町の山口などを拠点に活動した。
岩と砂で山や水の流れを表した、禅の精神を映す庭を何という?
枯山水
龍安寺や大徳寺大仙院の庭が代表。水を使わずに自然の景色を表した。
東山文化のころ、水墨画に大和絵の技法を取り入れた画派は?
狩野派(狩野正信・元信の父子)
大和絵の伝統を受け継ぐ土佐派(土佐光信)と並ぶ画派になった。
禅の精神を取り入れ、簡素な茶の湯である侘茶を始めた人物は?
村田珠光
豪華な茶器を競う闘茶などとは異なる、心の落ち着きを重んじる茶の湯を唱えた。
4. 公家と武家の文化の融合
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(イ)
武家が京都に住んで公家と交わるなかで、公家の伝統文化は武家の文化に取り込まれ、公家自身も古典の研究を通じて文化を伝えました。
室町時代に武家の文化と公家の文化が融け合ったのはなぜか?
幕府が京都に置かれ、将軍や守護大名が公家と日常的に交わったから
鎌倉幕府は京都から離れた鎌倉にあった。武家が都の文化の真ん中に入ったことが、融合を生んだ。
東山文化のころ、有職故実や古典の研究にすぐれ、将軍義尚に政治の意見書『樵談治要』を書いた公家は?
一条兼良
朝廷の儀式や古典の知識を伝える担い手として、公家が武家の文化を支えた。