モンゴル襲来と鎌倉幕府の滅亡
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」B (3) ア (ア) に当たります。モンゴル襲来をきっかけに武家政権の伸張が北条氏の得宗への権力集中に向かい、御家人の窮乏と不満の中で幕府が倒れるまでを押さえます。
0. 何を押さえるか
2 度の襲来は退けたものの、幕府は御家人に十分な恩賞を与えられず、防衛の負担だけが残りました。
一方で北条氏の嫡流(得宗)とその家臣への権力集中が進み、不満を持つ御家人や悪党が後醍醐天皇の討幕に加わります。
| 文永の役 | 弘安の役 | |
|---|---|---|
| 年 | 1274 年 | 1281 年 |
| 元の状況 | 高麗を従え、南宋と戦っている最中 | 1279 年に南宋を滅ぼした後 |
| 攻めてきた軍 | 元・高麗の軍 | 東路軍(元・高麗)と江南軍(旧南宋の兵) |
| 幕府の備え | 異国警固番役 | 博多湾沿岸の防塁(石築地)も築いていた |
| 結果 | 博多湾に上陸したが引き揚げた | 上陸を阻まれ、暴風雨で大きな損害を受けた |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 防塁(石築地)は文永の役の後、弘安の役の前に築かれた
- 永仁の徳政令(1297 年)は御家人の救済が目的で、御家人の所領の売買や質入れを禁じ、売った所領を取り戻させた
- 鎌倉幕府を倒したのは後醍醐天皇の呼びかけに応じた武士たち。京都の六波羅探題は足利高氏(尊氏)が、鎌倉は新田義貞が攻め落とした
1. モンゴル襲来
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
ユーラシアに大帝国を築いたモンゴルは、国号を元と改め、日本にも服属を求めてきました。
元の皇帝として日本に服属を求めたのは?
フビライ(=ハン)
使者を何度も送ったが、執権北条時宗はこれを拒んだ。
1274 年、元と高麗の軍が博多湾に上陸した最初の襲来を何という?
文永の役
日本側は元軍の集団戦法や火器(てつはう)に苦しんだが、元軍は引き揚げた。
元の襲来に備えて幕府が九州の御家人に課し、文永の役の後に強化した北九州沿岸の警備を何という?
異国警固番役
文永の役の前(1271 年ごろ)から課されていた。役の後には、博多湾の沿岸に上陸を防ぐ防塁(石築地)も築かせた。
1281 年、東路軍と江南軍の大軍が襲来した 2 度目の襲来は?
弘安の役
防塁などに阻まれて上陸できないうちに暴風雨にあい、大きな損害を受けて敗退した。
モンゴル襲来の後、幕府が九州の政務・裁判と御家人の指揮のため博多に置いた機関は?
鎮西探題
北条氏一門が任じられ、九州への北条氏の支配が強まった。
2. 得宗専制
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
襲来に備える非常時の体制のもとで、北条氏の嫡流に権力が集まっていきました。
北条氏の嫡流の当主を何という?
得宗
得宗とその家臣が幕府の政治を動かす体制を得宗専制政治という。
得宗に仕える家臣を御内人といい、その代表を何という?
内管領
御内人は将軍の家臣である御家人とは別で、得宗の私的な家臣だった。
1285 年、内管領平頼綱が有力御家人の安達泰盛を滅ぼした事件は?
霜月騒動
御家人を代表する勢力が倒れ、得宗専制が確立した。
3. 御家人の窮乏と永仁の徳政令
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
戦いの負担と相続の仕組みのために、御家人の生活は苦しくなっていきました。
モンゴル襲来の後、御家人の不満が高まった直接の理由は?
防衛戦で新たな土地を得られず、十分な恩賞がなかったから
戦費は自分で負担し、襲来後も警備の負担は続いた。
御家人の所領が細かくなり窮乏した、相続の面での理由は?
分割相続を繰り返したから
そのため、しだいに惣領がまとめて相続する単独相続に移っていった。
1297 年、北条貞時のもとで幕府が御家人を救うために出した法令は?
永仁の徳政令
御家人の所領の質入れ・売買を禁じ、すでに売ったり質に入れたりした所領を無償で取り戻させた。
永仁の徳政令は御家人を救えたか?
救えなかった。かえって金融の道が狭まり、混乱を招いた
御家人に金を貸す者が減り、所領の売買禁止などの規定は翌年には撤回された。
4. 鎌倉幕府の滅亡
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
皇位の継承をめぐって朝廷が分かれる中、後醍醐天皇が討幕を進め、1333 年に鎌倉幕府は滅びました。
鎌倉時代の後半、皇位をめぐって対立した天皇家の 2 つの系統は?
持明院統と大覚寺統
幕府の調停で両統が交互に皇位につく両統迭立の原則がとられた。後醍醐天皇は大覚寺統。
荘園領主や幕府に反抗し、年貢を奪うなどした、畿内を中心とする新しい武士の集団を何という?
悪党
幕府はその取り締まりにも手を焼き、討幕の動きではその力も使われた。
1333 年、鎌倉を攻め落として北条氏を滅ぼした武将は?
新田義貞
同じころ足利高氏(尊氏)は京都の六波羅探題を攻め落とした。得宗の北条高時も鎌倉で自害した。