執権政治と承久の乱
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」B (3) ア (ア) に当たります。頼朝の死後、北条氏が執権として幕府を動かし、承久の乱で朝廷に勝って支配を西国へ広げた、武家政権の伸張の過程を押さえます。
0. 何を押さえるか
頼朝の死後、将軍の独裁から有力御家人の合議へと移り、その中から北条氏が執権として実権を握りました。
承久の乱の勝利で幕府の力は朝廷を上回り、北条泰時のもとで合議と法による政治が整えられます。
| 執権 | 主なできごと |
|---|---|
| 北条時政 | 将軍頼家を退け、実朝を立てる。執権の始まり |
| 北条義時 | 和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の長官を兼ねる。承久の乱に勝つ |
| 北条泰時 | 連署・評定衆を置く。御成敗式目を定める |
| 北条時頼 | 宝治合戦で三浦氏を滅ぼす。引付衆を置く |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 承久の乱(1221 年)で朝廷を破ったのは北条義時のとき。御成敗式目(1232 年)は子の泰時のとき
- 六波羅探題は承久の乱のあとに京都に置かれた。それまでの京都守護とは別の、より強い機関
- 御成敗式目は幕府の勢力の及ぶ範囲の法で、朝廷の公家法や荘園領主の本所法はそれぞれ効力を持ち続けた
1. 北条氏の台頭
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
1199 年に頼朝が死ぬと、有力御家人の争いの中で北条氏が勢力を伸ばしました。
頼朝の死後、2 代将軍源頼家の独裁をおさえるために置かれた仕組みは?
13 人の有力御家人による合議制
北条時政・大江広元らが加わった。その後、有力御家人どうしの争いが続いた。
北条時政が就き、以後北条氏が代々受け継いだ、幕府の政治の中心となる地位は?
執権
政所の長官(別当)を中心とする地位で、将軍を補佐する立場から幕府の実権を握った。
1213 年、北条義時が侍所の長官の和田義盛を滅ぼした結果、どうなったか?
義時が政所と侍所の長官を兼ね、執権の地位を固めた
執権は北条氏が代々受け継ぐ地位になった。
1219 年に源実朝が暗殺されたあと、幕府が京都から迎えた将軍は?
摂関家出身の藤原頼経(摂家将軍)
源氏の将軍は 3 代で絶えた。将軍は名目だけとなり、実権は執権が握った。
2. 承久の乱
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
朝廷の力を取り戻そうとした後鳥羽上皇が兵を挙げましたが、幕府軍に短期間で敗れました。
1221 年、北条義時追討の命令を出して承久の乱を起こしたのは?
後鳥羽上皇
西面の武士を置くなど、院の軍事力を強めて幕府に対抗しようとした。
承久の乱で、動揺する御家人に頼朝の御恩を説き、結束を呼びかけた人物は?
北条政子
頼朝の妻で、幕府の中で強い影響力を持っていた。御家人の多くは幕府方についた。
承久の乱のあと、後鳥羽上皇はどうなったか?
隠岐に流された
土御門上皇・順徳上皇も流され、仲恭天皇は位を退けられた。
承久の乱のあと、朝廷の監視と西国の御家人の統率のため京都に置かれた機関は?
六波羅探題
北条泰時・時房が初めて就いた。以後、北条氏一門が任じられた。
承久の乱で上皇方から没収した所領に、新たに置かれた地頭を何という?
新補地頭
収入の基準が定められていない場合は、新補率法による給田と加徴米が認められた。幕府の力はこれで西国にも広がった。
3. 北条泰時と御成敗式目
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
北条泰時は、有力御家人の合議と、明文の法にもとづく政治を整えました。
北条泰時が置いた、執権を補佐する役と、幕府の政治や裁判を合議する役は?
連署と評定衆
連署には北条氏一門が、評定衆には有力御家人などが任じられた。
1232 年に北条泰時が定めた、武家の最初の体系的な法典は?
御成敗式目(貞永式目)
51 か条からなる。頼朝以来の先例と、武士社会の慣習や道徳である「道理」を基準とした。
御成敗式目は、朝廷の法を否定したのか?
否定していない。幕府の勢力の及ぶ範囲に適用された
朝廷の支配下では公家法が、荘園領主のもとでは本所法が効力を持ち続けた。
4. 北条時頼の政治
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(3)-ア-(ア)
時頼は北条氏に対抗しうる有力御家人を退け、裁判の仕組みを整えました。
1247 年、北条時頼が有力御家人の三浦泰村一族を滅ぼした戦いは?
宝治合戦
これで北条氏に対抗できる有力御家人はほとんどいなくなった。
北条時頼が、御家人の所領に関する裁判を迅速・公正にするために置いた役は?
引付衆
評定衆のもとで裁判を専門に扱った。のちに摂家将軍を退け、皇族の宗尊親王を将軍に迎えた。