漢文学の受容
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
0. どういうまとまりか
日本の文学は、中国から伝わった漢字と書物(漢籍)を読み、まねて書き、やがて自分たちの文学の中に溶かしこむという順で育ちました。
受け入れ方の土台になったのが、漢文を日本語として読む訓読です(訓読のしくみそのものは『言語文化』のノートの「漢文と日本語」にあります)。
ここでは、時代ごとに「だれが、何を読み、何を作ったか」を押さえます。
| 時代 | 起きたこと | 代表 |
|---|---|---|
| 上代 | 漢字と漢籍が伝わる。遣唐使が書物を持ち帰る。日本人が漢詩を作りはじめる | 懐風藻 |
| 平安時代初期 | 漢詩文が公の文学の中心になる | 凌雲集・文華秀麗集・経国集(勅撰漢詩集) |
| 平安時代前期 | 学者の家から優れた漢詩人が出る | 菅原道真『菅家文草』 |
| 平安時代中期 | 白居易の詩文が仮名の文学に取りこまれる | 枕草子・源氏物語・和漢朗詠集 |
| 中世 | 禅宗の寺が漢詩文の中心になる | 五山文学(義堂周信・絶海中津) |
| 近世 | 儒学が広まり、武士や町人も漢詩文を作る | 頼山陽・菅茶山・広瀬淡窓 |
分かれ目は次の 3 つ。
- 勅撰の集は、漢詩集のほうが和歌集より先に作られた。平安時代の初めは、漢詩文が公の文学だった。
- 平安の仮名文学に最も大きな影響を与えたのは、李白や杜甫ではなく白居易(『白氏文集』)。
- 受け入れて終わりではない。訓読・仮名・和歌と漢詩を並べる集など、中国には無い形を日本の側で育てた。
1. 漢字と漢籍が伝わる
根拠: 学習指導要領 古典探究-(2)-ア
日本語にはもともと文字が無く、書物はすべて海の向こうから来ました。
朝鮮半島を通って漢字と漢籍が伝わり、のちには遣唐使が唐から直接、書物を持ち帰ります。
『古事記』が、応神天皇の時代に百済から来て『論語』と『千字文』をもたらしたと伝える人物は?
王仁(わに)(古事記の表記は和邇吉師)
言い伝えであって、年代や書名がそのまま史実かどうかは確かでない。漢籍が朝鮮半島を通って伝わったことを示す話として読む。
7 世紀から 9 世紀にかけて、日本から唐へ送られた使節を何というか? 文学の面では何をもたらしたか?
遣唐使。同行した留学生や留学僧が、漢籍や仏典を大量に持ち帰った。
唐の制度・学問・詩文を直接学ぶ道になった。894 年に停止された。
漢文を訓読で読んできたことは、日本人の漢籍の受け入れ方に何をもたらしたか? 2 つ挙げると?
中国語の発音を知らなくても漢籍が読めたことと、同じ読み方を使って自分でも漢文や漢詩を書けたこと。
翻訳して原文を手放すのでも、外国語のまま読むのでもない受け入れ方である。そのため漢文は、外国の文章でありながら「自分の国の古典」として読み継がれてきた。
2. 奈良・平安の漢詩文
根拠: 学習指導要領 古典探究-(2)-ア
奈良時代から平安時代の初めにかけて、役人になる人は大学寮で漢籍を学び、漢詩文を作れることが公の教養でした。
日本人の漢詩を集めた、現存する最古の集が奈良時代の『懐風藻』で、平安時代に入ると天皇の命令で漢詩集が編まれます。
平安時代の初めに、天皇の命令で編まれた 3 つの漢詩集(勅撰三集)は?
凌雲集・文華秀麗集・経国集
凌雲集と文華秀麗集は嵯峨天皇、経国集は淳和天皇の命令で、9 世紀の前半に相次いで作られた。
勅撰の漢詩集が、最初の勅撰和歌集(古今和歌集)より 90 年ほど早く作られたことから、何が分かるか?
平安時代の初めには、和歌ではなく漢詩文が公の場の文学だったこと。
和歌が公の場に戻るのは、仮名が広まった 9 世紀の終わりから 10 世紀の初めである。
平安時代前期の学者・政治家で、漢詩文集『菅家文草』『菅家後集』を残し、遣唐使の停止を進言した人物は?
菅原道真
学者の家に生まれて右大臣にまで上ったが、大宰府に左遷された。『菅家後集』には左遷された後の詩が収められている。
3. 白居易と平安の仮名文学
根拠: 学習指導要領 古典探究-(2)-ア
遣唐使が止まっても、漢籍は読まれ続けました。中でも唐の白居易(白楽天)の詩文は、言葉が平明で分かりやすく、
平安貴族の共通の教養になります。仮名で書かれた随筆や物語は、読み手が白居易を知っていることを前提にしています。
平安時代の貴族に最もよく読まれた唐の詩人と、その詩文集は?
白居易(白楽天)の『白氏文集』
平安時代に単に「文集(もんじふ)」と言えば、この本を指した。
枕草子の「香炉峰の雪」の段は白居易の詩句を、源氏物語の桐壺の巻は白居易の「長恨歌」をふまえています
(どの句をどうふまえたかは、このパックの「06 表現の特色」にある「典故と引用」で扱います)。
ここでは、漢詩文の知識が宮廷でどういう位置にあったかを確かめます。
大鏡の「三舟の才」の話で、藤原道長は大堰川の舟遊びに 3 つの舟を用意した。何の舟か? 和歌の舟に乗って名歌を詠んだ藤原公任は、後で何を悔やんだか?
作文(漢詩を作ること)・管絃・和歌の 3 つの舟。公任は、漢詩の舟に乗ればよかったと悔やんだ。
同じ出来ばえなら漢詩のほうが名声が上がっただろう、と言う。和歌が盛んになった平安時代中期にも、公の場では漢詩が和歌より重く見られていたことが分かる。
紫式部日記によると、紫式部は漢籍の知識を人前でどう扱ったか? そこから、漢籍と女性の関係について何が分かるか?
隠した(「一」という漢字さえ書けないふりをした、と書いている)。漢籍の学問は男性のものとされていたが、仮名の文学を書いた女性も、実際には漢籍をよく知っていたことが分かる。
幼いころ、父が男のきょうだい(惟規。弟とも兄ともいう)に漢籍を教えるのをそばで聞いて先に覚えてしまい、父に「この子が男子でないのが不運だ」と嘆かれた話も記している。
藤原公任が編んだ、朗詠に向く漢詩文の句と和歌を、同じ題のもとに並べた平安時代中期の集は?
和漢朗詠集
四季の景物などの題ごとに、中国の詩句・日本人の漢詩句・和歌を並べる。漢詩と和歌を同じ場で並べて味わう形は、日本の側で生まれたもの。
4. 中世・近世の漢詩文
根拠: 学習指導要領 古典探究-(2)-ア
中世には、漢詩文の中心が貴族から禅宗の僧に移ります。近世には儒学の広まりとともに、作り手が武士や町人にまで広がりました。
鎌倉時代の終わりから室町時代にかけて、京都や鎌倉の禅宗の大きな寺の僧たちが作った漢詩文を何というか? 代表的な作者は?
五山文学。代表は義堂周信・絶海中津。
禅僧は中国へ渡ったり、中国から来た僧に学んだりして、宋や元の新しい詩文と学問を伝えた。
江戸時代の後期に、武家の興亡を漢文で書いた歴史書『日本外史』を著し、漢詩人としても知られた人物は?
頼山陽
江戸時代は儒学が学問の中心で、藩の学校や私塾で漢籍を学んだ。同じ時代の漢詩人に菅茶山・広瀬淡窓がいる。
日本人は中国の文学を「ただ受け入れただけ」ではなかった。受け入れたものから日本の側で育てたものを、3 つ挙げると?
訓読という読み方、漢字から作った仮名、漢詩の表現を取りこんだ仮名の文学(和歌と漢詩を並べる和漢朗詠集、源氏物語など)。
学習指導要領の解説も、先人が外国の文化を受け入れただけでなく「我が国独自の文化を育て上げてきた」ことの理解を求めている。
近代に入っても、夏目漱石や森鷗外のように漢詩を作る作家がいました。漢詩を作ることは、長い間、教養のある人の表現の手段でした。