聖徳太子の政治と大化の改新
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領 歴史的分野 B (1) 古代までの日本 ア (ウ)「律令国家の形成」。
0. どういう論点か
6 世紀の終わりに、中国が隋によって統一されました。
強い統一国家が隣に生まれたことで、日本も豪族がばらばらに力を持つ国から、天皇を中心にまとまった国へ変わる必要に迫られます。
その流れは次の 3 段階で進みました。
| 段階 | 中心となった人 | したこと |
|---|---|---|
| 聖徳太子の政治(7 世紀初め) | 聖徳太子・蘇我馬子 | 冠位十二階・十七条の憲法・遣隋使 |
| 大化の改新(645 年〜) | 中大兄皇子・中臣鎌足 | 蘇我氏を倒し、公地公民の方針を示す |
| 壬申の乱のあと(672 年〜) | 天武天皇・持統天皇 | 天皇の力を強め、律令国家への準備を進める |
引っかけの分かれ目は次の 3 つ。
- 冠位十二階は「人の選び方」、十七条の憲法は「役人の心構え」(十七条の憲法は、国の最高法規である今の憲法とは違う)
- 大化の改新で倒されたのは蘇我氏(聖徳太子とともに政治を進めた蘇我馬子の子や孫)
- 白村江の戦いで日本が戦った相手は唐と新羅(助けようとしたのは百済)
1. 隋の統一と聖徳太子の政治
根拠: 学習指導要領 歴-B-(1)-ア-(ウ)
589 年に中国を統一した王朝は?
隋
南北に分かれていた中国を約 300 年ぶりに統一した。
聖徳太子が、蘇我馬子と協力しながら政治を助けた天皇は?
推古天皇
聖徳太子のおばにあたる女性の天皇。
家柄にとらわれず、才能や功績のある人を役人に取り立てるため、603 年に定められた制度は?
冠位十二階
冠の色で位を分けた。人の選び方の改革。
604 年に定められた、仏教や儒教の考えを取り入れて役人の心構えを示したものは?
十七条の憲法
天皇の命令に従うことなどを説いた。国の仕組みを定めた今の憲法とは性格が違う。
607 年に遣隋使として隋に送られた人物と、遣隋使を送った目的は?
小野妹子・隋の進んだ制度や文化を取り入れるため
留学生や僧も同行し、帰国後の国づくりに加わった。
古事記や日本書紀では「厩戸皇子」などと書かれていた人物が、のちに何と呼ばれるようになったか?
聖徳太子
「聖徳太子」は、後の時代に人々から称されるようになった呼び名である。
2. 大化の改新
根拠: 学習指導要領 歴-B-(1)-ア-(ウ)
聖徳太子の死後、蘇我氏が大きな力を持って政治を思いのままにするようになりました。
一方、618 年には隋が倒れて唐が中国を統一し、律令に基づく強い国をつくっていました。
645 年、蘇我氏を倒して政治の改革を始めた 2 人は?
中大兄皇子・中臣鎌足
この改革を大化の改新という。中臣鎌足はのちに藤原の姓を与えられ、藤原氏の祖となった。
大化の改新で示された、豪族が支配していた土地と人々を国(天皇)のものとする方針を何という?
公地公民
豪族の私有地や私有民を廃し、国が直接治める仕組みをめざした。
3. 白村江の戦いと壬申の乱
根拠: 学習指導要領 歴-B-(1)-ア-(ウ)
663 年、百済を助けるために送った日本の軍が、唐と新羅の連合軍に大敗した戦いは?
白村江の戦い
敗戦後、唐や新羅の攻撃に備えて、九州北部に水城や山城を築き、防人を置いた。
中大兄皇子は、のちに即位して何という天皇になったか?
天智天皇
都を近江(滋賀県)の大津に移し、全国的な戸籍をつくった。
天智天皇の死後、あとつぎをめぐって起こり、天皇の弟の大海人皇子が勝った 672 年の争いは?
壬申の乱
大海人皇子は天武天皇として即位し、天皇の力を強めて律令国家への準備を進めた。
天武天皇のあとをついだ持統天皇のもとで完成した、中国の都にならった日本で最初の本格的な都は?
藤原京
694 年に移った。このあと平城京へ移るまでの都。