モンゴル帝国と元寇
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領 歴史的分野 B 近世までの日本とアジア (2) 中世の日本 ア (ア)『武家政治の成立とユーラシアの交流』。
0. どういう論点か
元寇は、日本だけの出来事ではありません。
モンゴル帝国がユーラシアの東から西までを一つにまとめ、
その東の端で日本にも服属を求めてきた——ユーラシア全体の動きの一部として起きました。
そして元寇は、勝ったのに幕府を弱らせます。
守りの戦いだったので、新しい領地が手に入らず、御家人に恩賞を払えなかったからです。
御恩と奉公の関係がここで揺らぎます。
| 文永の役 | 弘安の役 | |
|---|---|---|
| 年 | 1274 年 | 1281 年 |
| 攻めてきた軍 | 元と高麗の軍 | 元・高麗の軍と、元に滅ぼされた旧南宋の軍 |
| 幕府の備え | 御家人を集めて迎え撃つ | 博多湾沿岸に石の防壁(防塁)を築いていた |
引っかけの分かれ目は次の 3 つ。
- モンゴルを統一したのはチンギス・ハン、国号を元にして日本に攻めてきたのはフビライ・ハン
- 元寇のときの執権は北条時宗(御成敗式目の北条泰時ではない)
- 徳政令は御家人を救うためのもの(借金帳消しを求めて民衆が起こすのは室町時代の土一揆)
1. モンゴル帝国とユーラシアの結び付き
根拠: 学習指導要領 歴-B-(2)-ア-(ア)
13 世紀のはじめ、モンゴル高原の遊牧民の諸部族を統一した人物は?
チンギス・ハン
その子孫が征服を続け、東は中国から西は東ヨーロッパの近くまでの大帝国になった。
モンゴル帝国がユーラシアの広い範囲を支配したことで、東西の間にどんな変化が起きたか?
陸と海の交通路が整えられ、東西の人や物、文化の行き来が盛んになった
ユーラシアが一つに結び付いた。元寇はこの大きな動きの東の端で起きた出来事。
元の皇帝フビライに仕えたとされ、その旅の話をまとめた記録で日本を「黄金の国ジパング」とヨーロッパに紹介したイタリアの商人は?
マルコ・ポーロ
ユーラシアが結び付いたことで、ヨーロッパの人がアジアの様子を伝えるようになった。
モンゴル帝国の皇帝で、国号を元と定め、都を大都(今の北京)に置いた人物は?
フビライ・ハン
チンギス・ハンの孫。朝鮮半島の高麗を従え、日本にも服属を求めた。
2. 元寇
根拠: 学習指導要領 歴-B-(2)-ア-(ア)
元の服属の要求を退け、元寇のときに幕府を率いた執権は?
北条時宗
御成敗式目を定めた北条泰時と取り違えやすい。
1274 年、元と高麗の軍が九州北部に攻めてきた戦いは?
文永の役
1 度目の元寇。2 度目の 1281 年が弘安の役。
1281 年、元の大軍が再び九州北部に攻めてきた戦いは?
弘安の役
幕府は博多湾の沿岸に石の防壁(防塁)を築いて備えていた。元軍は暴風雨にもあって大きな損害を受けた。
元寇で、日本の武士が苦しんだ元軍の戦い方の特徴は?
集団で戦う戦法と、火薬を使った武器(てつはう)
日本の武士は一騎打ちが中心だったので、戦い方の違いに苦しんだ。
3. 元寇の後と幕府の衰え
根拠: 学習指導要領 歴-B-(2)-ア-(ア)
元寇で戦った御家人が、幕府から十分な恩賞を得られなかったのはなぜか?
国内を守る戦いで、敵から取り上げた新しい領地が無かったから
御恩として与える土地が無く、御恩と奉公の関係が揺らいだ。
鎌倉時代の御家人の領地が、代を重ねるごとに小さくなっていった理由は?
領地を子どもたちに分けて相続していた(分割相続)から
元寇の負担も重なり、生活が苦しくなって領地を手放す御家人が増えた。
1297 年、幕府が生活に苦しむ御家人を救うため、手放した領地をただで取り戻させた法令は?
徳政令(永仁の徳政令)
一時しのぎで、かえって経済が混乱し、御家人の幕府への不満は収まらなかった。
鎌倉時代の終わりごろ、幕府や荘園領主に従わず、年貢を奪うなどして力をのばした武士たちを何と呼んだ?
悪党
御家人の不満に加えて悪党の動きも広がり、幕府の支配は揺らいだ。これが後醍醐天皇の倒幕に武士が加わる下地になった。