秦・漢帝国
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」B (3) ア (ア) の「秦・漢と遊牧国家,唐と近隣諸国の動向などを基に,東アジアと中央ユーラシアの歴史的特質を理解すること」。
このノートでは、中国を初めて統一した秦と、それを受け継いで 400 年にわたり続いた漢を扱います。北方の遊牧国家・匈奴との関係は次のノートでも扱います。
0. 何を押さえるか
秦は法家の考えにもとづく急激な中央集権で統一を果たしましたが、わずか 15 年ほどで倒れました。
漢はその失敗に学んで出発し、武帝のときに中央集権を完成させ、領土を大きく広げます。ここでできた皇帝による統治のかたちが、のちの中国王朝の手本になりました。
| 秦 | 前漢 | 後漢 | |
|---|---|---|---|
| 建国 | 前 221 年に統一(始皇帝) | 前 202 年(劉邦=高祖) | 25 年(劉秀=光武帝) |
| 都 | 咸陽 | 長安 | 洛陽 |
| 地方の治め方 | 郡県制 | 郡国制 → 武帝のころ事実上の郡県制 | 郡県制 |
| 思想 | 法家(焚書・坑儒) | 武帝のとき董仲舒の献策で儒学を重視 | 儒学が定着、訓詁学 |
| 滅亡のきっかけ | 陳勝・呉広の乱(前 209 年) | 外戚の王莽が帝位を奪い新を建てる(8 年) | 黄巾の乱(184 年)後の群雄割拠 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 郡県制は皇帝が役人を派遣して直接治める、郡国制は郡県制と封建制の併用。漢は秦の急激な郡県制を和らげて始まった
- 匈奴を撃ち、張騫を西域に送り、塩・鉄を専売したのはいずれも前漢の武帝。始皇帝と混ぜない
- 前漢の都は長安、後漢の都は洛陽。間に王莽の新が入る
1. 秦の統一と始皇帝の政策
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ア)
戦国時代、秦は商鞅の改革で富国強兵を進め、前 221 年、秦王の政が他の 6 国を滅ぼして中国を統一しました。
政は「皇帝」の称号を初めて名のり、始皇帝となります。
始皇帝が全国に施行した地方の統治制度は?
郡県制
全国を郡と県に分け、中央から役人を派遣して直接治めた。封建のように諸侯に土地を分け与えることはしなかった。
始皇帝が、統一した国をまとめるために全国で統一したものを挙げると?
度量衡(長さ・容積・重さの単位)、貨幣(半両銭)、文字
戦国時代に国ごとにばらばらだった制度をそろえ、中央集権の支配を支えた。
始皇帝が法家の李斯の意見を入れて行った、思想の統制を何という?
焚書・坑儒
医薬・占い・農業以外の書物を焼き、批判的な儒者らを弾圧したとされる。
秦がわずか 15 年ほどで滅んだ原因として押さえることは?
急激な統一政策と、長城の修築などの重い労役に民衆が反発し、陳勝・呉広の乱をきっかけに各地で反乱が起きたから
陳勝・呉広の乱(前 209 年)は、中国最初の大規模な農民反乱とされる。
2. 漢の成立と郡国制
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ア)
秦の滅亡後、農民出身の劉邦が楚の項羽をやぶって前 202 年に漢を建て、長安を都としました(前漢)。
前漢の高祖(劉邦)が採用した、郡県制と封建制を併用する地方制度は?
郡国制
都の周辺は郡県制で直接治め、遠い地域には一族や功臣を王として封じた。秦の急激な郡県制への反発をやわらげるためだった。
前 154 年、諸侯王の勢力を削ろうとした前漢の政策に反発して起きた反乱と、その結果は?
呉楚七国の乱。鎮圧されて諸侯王の力が弱まり、事実上の郡県制に移った
これで武帝の時代の強い中央集権の条件が整った。
3. 武帝の時代
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ア)
前漢の武帝(在位 前 141〜前 87 年)は、匈奴を攻撃して領土を広げ、国内では中央集権と財政の立て直しを進めました。
武帝が、匈奴を挟み撃ちにする同盟を求めて西方の大月氏に派遣した人物は?
張騫
同盟は実現しなかったが、西域の事情が漢に伝わり、東西の交通路が開かれるきっかけになった。
武帝が、南越や衛氏朝鮮を滅ぼして置いたものは?
郡(南越の地=いまの中国南部からベトナム北・中部に南海 9 郡、朝鮮半島に楽浪郡など 4 郡)
漢の支配は東アジアの広い範囲に及び、周辺地域に漢字や中国の文物が伝わる道が開かれた。
武帝が、戦争などで苦しくなった財政を立て直すために行った政策は?
塩・鉄・酒の専売と、均輸・平準による物価の調整
国家が商業の利益を吸い上げたため、商人の反発を招いた。
武帝の時代に、地方の長官が優れた人物を推薦して役人にした官吏登用の制度は?
郷挙里選
実際には地方の豪族の子弟が推薦されることが多く、豪族が官界に進出する道になった。
武帝の時代に、董仲舒の献策をきっかけに儒学がどのように扱われるようになったか?
五経博士が置かれ、儒学が国家の学問として重んじられた
儒学がほかの思想をおさえて国家の正統な学問として定着したのは、前漢の末から後漢にかけてとする見方もある。
4. 後漢
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ア)
外戚の王莽が帝位を奪って新を建てましたが、その復古的な政治は混乱を招き、赤眉の乱などで倒れました。
漢の一族の劉秀(光武帝)が 25 年に漢を再興し、洛陽を都としました(後漢)。
57 年、倭の奴国の使者に光武帝が与えたとされるものは?
金印(「漢委奴国王」と刻まれた印)
江戸時代に福岡県の志賀島で見つかった。周辺の国の君主に称号を与えて従わせる関係を示す。
後漢末の 184 年、宗教結社の太平道を率いた張角が起こした反乱は?
黄巾の乱
この乱ののち各地の豪族や武将が自立して争い、220 年に後漢は滅んだ。