ヘレニズムとローマ帝国
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」B (3) ア (ウ) の「西アジアと地中海周辺の諸国家」のうち、アレクサンドロス大王の帝国とヘレニズム時代、そしてローマが地中海世界を統一してから東西に分かれるまでを扱います。
0. 何を押さえるか
アレクサンドロス大王の遠征によって、ギリシアと西アジアが一つの世界に結びつき、ギリシア文化とオリエント文化が溶け合ったヘレニズム文化が生まれました。
その後、イタリア半島の都市国家ローマが、共和政のもとで地中海の全域を支配し、内乱を経て皇帝が治める帝政へ移ります。
帝国は 3 世紀に混乱し、専制君主政で立て直されたのち、4 世紀末に東西に分かれました。
| 時期 | ローマの政治 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 前 509〜前 27 | 共和政(元老院とコンスル) | 平民との身分闘争、イタリア半島統一、ポエニ戦争、内乱の 1 世紀 |
| 前 27〜3 世紀 | 元首政(プリンキパトゥス) | アウグストゥス、「ローマの平和」、五賢帝 |
| 3 世紀 | 軍人皇帝の時代 | 各地の軍団が皇帝を立て、帝国が混乱 |
| 3 世紀末〜 | 専制君主政(ドミナトゥス) | ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス、395 年に東西分裂 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 元首政は共和政の形を残した帝政、専制君主政は皇帝を神のように崇める帝政。前者はアウグストゥス、後者はディオクレティアヌスから
- ホルテンシウス法(前 287)で平民会の決議が元老院の承認なしに国法となり、身分闘争が終わった。リキニウス・セクスティウス法(前 367)はコンスルの 1 人を平民から選ぶ法
- 395 年は東西分裂、476 年は西ローマ帝国の滅亡。東ローマ(ビザンツ)帝国は 15 世紀まで続いた
1. アレクサンドロスとヘレニズム
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ウ)
マケドニアのアレクサンドロス大王は、前 334 年に東方遠征に出発し、アケメネス朝を滅ぼしてインダス川流域にまで達しました。
大王の死後、帝国は後継者たちの争いによって分裂します。
アレクサンドロス大王の東方遠征で滅んだ、西アジアの大帝国は?
アケメネス朝(前 330 年に滅亡)
大王はイッソスの戦い、アルベラの戦いでダレイオス 3 世の軍を破った。
アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の争いから生まれた 3 つの主な国は?
プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニア
最後まで残ったプトレマイオス朝が前 30 年にローマに滅ぼされるまでを、ヘレニズム時代と呼ぶ。
ヘレニズム時代の学問の中心となり、ムセイオン(王立研究所)が置かれた都市は?
アレクサンドリア(プトレマイオス朝エジプトの都)
エウクレイデス(幾何学)やエラトステネス(地球の周囲の測定)らが活躍した。
ポリスの枠が崩れたヘレニズム時代に広まった、ポリスにとらわれない考え方は?
世界市民主義(コスモポリタニズム)
個人の心の平安を求める哲学も生まれた。ゼノンが開いたストア派や、エピクロス派がその例。
2. ローマの共和政と地中海統一
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ウ)
ローマは前 6 世紀末に王を追放して共和政となり、貴族と平民の身分闘争を経ながら、前 3 世紀前半にイタリア半島を統一しました。
さらにポエニ戦争でカルタゴを倒し、地中海の覇者となります。
共和政ローマで、平民を守るために設けられ、元老院やコンスルの決定に拒否権をもった役職は?
護民官
平民だけの民会(平民会)とともに、前 5 世紀初めに設けられた。
前 5 世紀半ば、それまで貴族が独占していた慣習法を成文化したローマ最古の成文法は?
十二表法
法が公開されたことで、貴族が法を勝手に解釈することが難しくなった。
前 3 世紀から前 2 世紀にかけて、ローマがカルタゴと争った戦争は?
ポエニ戦争
カルタゴのハンニバルにイタリアを攻め込まれたが、スキピオの活躍で勝利した。最初の属州はシチリア。
地中海の征服で属州が広がると、ローマの中小農民はどうなったか?
長い従軍や属州からの安い穀物に押されて没落した
一方で有力者は奴隷を使う大土地所有(ラティフンディア)で富を増やした。グラックス兄弟はこれを改めようとしたが失敗した。
3. 内乱の 1 世紀から帝政へ
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ウ)
前 2 世紀末から、有力者どうしの争いや奴隷の反乱が続きました(内乱の 1 世紀)。
この混乱を収めたのがオクタウィアヌスで、ローマは皇帝が治める帝政へ移ります。
前 60 年、ポンペイウス・カエサル・クラッススが結んだ政治同盟は?
第 1 回三頭政治
カエサルはガリアを征服して力をつけ、ポンペイウスを倒して独裁者となったが、前 44 年に暗殺された。
前 31 年のアクティウムの海戦で、オクタウィアヌスが破った相手は?
アントニウスとプトレマイオス朝のクレオパトラ
翌年プトレマイオス朝が滅び、ローマは地中海世界を統一した。
前 27 年に「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を受けたオクタウィアヌスが始めた政治のかたちは?
元首政(プリンキパトゥス)
元老院など共和政の制度を形のうえでは残し、自らは「市民の第一人者(プリンケプス)」と称したが、実際には権力を一人で握った。
212 年、カラカラ帝が出した命令の内容は?
帝国内のすべての自由人にローマ市民権を与えた
市民権が帝国全体に広がり、ローマ市民であることの特権は薄れた。
4. 帝国の再建と分裂
根拠: 学習指導要領 世界史探究-B-(3)-ア-(ウ)
3 世紀には各地の軍団が次々に皇帝を立てる軍人皇帝の時代となり、帝国は混乱しました。
ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスが立て直しますが、ゲルマン人の移動が始まるなか、帝国は東西に分かれます。
3 世紀末に即位し、帝国を 4 人の皇帝で分担して統治する制度を設け、専制君主政を始めた皇帝は?
ディオクレティアヌス
皇帝を神のように崇めさせ、キリスト教徒を大規模に迫害した。
330 年、コンスタンティヌス帝が帝国の都を移した都市は?
コンスタンティノープル(もとのビザンティウム)
コンスタンティヌス帝はソリドゥス金貨を発行し、コロヌス(小作人)の移動を禁じた。
ローマ帝国が東西に分かれたのは、どの皇帝の死後か?
テオドシウス帝(395 年に死去)
2 人の子が東西をそれぞれ継いだ。西ローマ帝国は 476 年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって皇帝が退位させられて滅んだ。