オスマン帝国
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」C (3) ア (ア) の「西アジアや南アジアの諸帝国」。
思考の側では、これらの動向から諸帝国の統治の特徴やアジア諸地域の経済と社会、文化の特色を考えることが求められています。このノートは、その最初の例としてオスマン帝国を扱います。
0. 何を押さえるか
オスマン帝国は 13 世紀末に小アジアで興り、ビザンツ帝国を滅ぼして、西アジア・北アフリカ・バルカン半島にまたがる大帝国になりました。
スンナ派のイスラームを掲げながら、キリスト教徒やユダヤ教徒の共同体に自治を認め、多様な人々をまとめて統治したのが特徴です。
| スルタン | 主なできごと |
|---|---|
| メフメト 2 世 | 1453 年、コンスタンティノープルを攻略しビザンツ帝国を滅ぼす(イスタンブルを都に) |
| セリム 1 世 | 1517 年、マムルーク朝を滅ぼしエジプト・シリアを得る。メッカ・メディナの保護者となる |
| スレイマン 1 世 | 1526 年モハーチの戦い、1529 年第 1 次ウィーン包囲、1538 年プレヴェザの海戦 |
| (セリム 2 世) | 1571 年、レパントの海戦で敗れる |
| (17 世紀後半) | 1683 年、第 2 次ウィーン包囲に失敗 → 1699 年カルロヴィッツ条約でハンガリーを失う |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- プレヴェザの海戦(1538 年)は勝ち、レパントの海戦(1571 年)は負け。どちらもスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇などの連合艦隊が相手
- 第 1 次ウィーン包囲(1529 年)はスレイマン 1 世の最盛期、第 2 次(1683 年)は失敗して後退の始まり
- カピチュレーションは、帝国が強かったころにスルタンが恩恵として与えた特権。不平等条約として押し付けられたものではない
1. 小アジアからの拡大
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(3)-ア-(ア)
オスマン帝国はバルカン半島へ進出したのち、一時ティムールに敗れましたが立ち直り、ビザンツ帝国の都を攻め落としました。
16 世紀には東アラブ地域を得て、イスラーム世界の中心的な国家になります。
1402 年、オスマン帝国がティムールに敗れ、スルタンが捕らえられた戦いは?
アンカラの戦い
帝国は一時分裂の危機に陥ったが、まもなく立て直した。
1453 年、コンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしたスルタンは?
メフメト 2 世
コンスタンティノープルは帝国の都イスタンブルとなり、アジアとヨーロッパを結ぶ交易の中心として栄えた。
1517 年、セリム 1 世がマムルーク朝を滅ぼしたことで、オスマン帝国が得た宗教上の立場は?
メッカ・メディナの両聖都の保護者
エジプト・シリアを支配下に入れ、スンナ派イスラーム世界を代表する国家になった。
2. スレイマン 1 世とウィーン包囲
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(3)-ア-(ア)
16 世紀のスレイマン 1 世の時代が最盛期です。ハンガリーを破ってウィーンに迫り、地中海でもヨーロッパの連合艦隊を退けました。
その後は海戦に敗れ、17 世紀末には領土を初めて大きく失います。
1529 年、スレイマン 1 世がハプスブルク家の都を包囲した出来事は?
第 1 次ウィーン包囲
1526 年にモハーチの戦いでハンガリーを破ったあとのこと。ウィーンは落とせなかったが、ヨーロッパに大きな脅威を与えた。
ハプスブルク家と争うなかで、スレイマン 1 世が提携したヨーロッパの国は?
フランス(フランソワ 1 世)
キリスト教国とイスラーム国家の提携で、共通の敵ハプスブルク家に対抗した。宗教より国家の利害が優先された例。
プレヴェザの海戦(1538 年)とレパントの海戦(1571 年)で、オスマン帝国の勝敗はどう違うか?
プレヴェザは勝利、レパントは敗北
プレヴェザの勝利で地中海の制海権を握った。レパントで敗れたあとも、艦隊を再建して東地中海での優位はしばらく保った。
1683 年の第 2 次ウィーン包囲の失敗のあと、1699 年の条約でオスマン帝国がオーストリアに譲った地域は?
ハンガリー(カルロヴィッツ条約)
オスマン帝国が初めて大きな領土を失った条約で、ヨーロッパに対する後退の始まりとされる。
3. スルタンの統治
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(3)-ア-(ア)
スルタンはイスラーム法(シャリーア)に基づいて統治しつつ、独自の行政法も定めて、中央集権的な官僚と軍隊を整えました。
スレイマン 1 世が「立法者」と呼ばれるのはなぜか?
イスラーム法を補う行政上の法(カーヌーン)を整えたから
イスラーム法を基本としながら、広い領土を治めるための法を独自に定めた。
オスマン帝国で、騎士(シパーヒー)に一定の土地の徴税権を与え、代わりに軍役を負わせた制度は?
ティマール制
騎士は与えられた土地から税を取り、戦時にはその収入で装備を整えて出陣した。
バルカン半島のキリスト教徒の子弟を集め、イスラームに改宗させて官僚や軍人に育てた制度は?
デヴシルメ
こうして育てられた者は、スルタンに直属する常備歩兵軍団イェニチェリや、宮廷の高官になった。
デヴシルメで集めた若者からつくられた、鉄砲を用いるスルタン直属の常備歩兵軍団は?
イェニチェリ
騎兵のシパーヒーと並ぶ帝国の軍事力の柱だった。
4. 異教徒と外国人の扱い
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(3)-ア-(ア)
多くの宗教の人々を抱える帝国は、非ムスリムに共同体ごとの自治を認め、外国の商人にも居住と通商の特権を与えました。
オスマン帝国で、キリスト教徒やユダヤ教徒の宗教共同体に認められた自治を何という?(共同体の呼び名)
ミッレト
共同体ごとに信仰や慣習、法による生活を認め、多様な住民をまとめて統治した。
オスマン帝国で、非ムスリムが信仰と自治を認められる条件は?
人頭税(ジズヤ)を納め、スルタンの支配に従うこと
改宗を強制するのではなく、税と服従と引き換えに共存させた。
オスマン帝国のスルタンが、領内に住む外国人に恩恵として与えた居住・通商などの特権を何という?
カピチュレーション
16 世紀、ハプスブルク家に対抗して提携したフランスの商人に与えたものがよく知られる。のちに帝国が弱ると、ヨーロッパ諸国が内政に介入する足がかりとなった。
イスタンブルのスレイマン=モスクを設計した建築家は?
シナン(ミマール=シナン)
ビザンツ建築のドームの技術も取り入れ、オスマン帝国の都の景観をつくった。