オスマン帝国の改革と西アジア
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」D (2) ア (イ) の「アジア諸国の植民地化と諸改革」のうち、西アジアを扱います。ヨーロッパ列強の進出と世界市場への組み込みのなかで、オスマン帝国とエジプト・イランは、それぞれ上からの改革に取り組みました。
0. 何を押さえるか
19 世紀のオスマン帝国は、領内の諸民族の独立運動と、ロシアの南下をはじめとする列強の介入に苦しみました。この国際問題を、ヨーロッパの側から見て東方問題といいます。帝国は改革で生き残りを図りましたが、財政難と列強への経済的な従属は深まりました。
| エジプト | オスマン帝国 | |
|---|---|---|
| 改革の担い手 | 総督ムハンマド=アリー | スルタン(アブデュルメジト 1 世)と官僚 |
| 主な改革 | 近代的な軍隊、工場、綿花の栽培 | タンジマート(1839 年〜)、ミドハト憲法(1876 年) |
| その後 | スエズ運河の負債からイギリスの支配下へ | 憲法停止、スルタンの専制へ |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- ムハンマド=アリーはオスマン帝国の総督として自立し、宗主国のオスマン帝国と戦った。エジプトは形式上オスマン帝国の一部のまま
- タンジマートはムスリムと非ムスリムの法の前の平等をうたった。非ムスリムを別扱いしてきた仕組みを改めようとした
- ミドハト憲法は 1876 年に発布され、1878 年にロシアとの戦争を理由に停止された
1. エジプトの自立
根拠: 学習指導要領 世界史探究-D-(2)-ア-(イ)
ナポレオンのエジプト遠征(1798 年)の混乱のなかで、オスマン帝国から派遣された軍人がエジプトの実権を握り、近代化を進めました。
19 世紀初めにエジプト総督となり、富国強兵の近代化を進めた人物は?
ムハンマド=アリー
近代的な軍隊や工場をつくり、輸出用の綿花の栽培を広げた。
ムハンマド=アリーがオスマン帝国と戦った 2 度の戦争の結果、1840 年のロンドン会議で認められたことは?
エジプト・スーダンの総督の地位の世襲(シリアは放棄させられた)
イギリスなどはエジプトの勢力拡大を警戒し、オスマン帝国を支えた。
1869 年に開通したスエズ運河は、その後のエジプトにどんな影響を与えたか?
建設などの負債で財政が破綻し、イギリスに運河会社の株を買い取られて介入を招いた
1875 年、イギリスのディズレーリ首相が運河会社の株を買収した。
「エジプト人のためのエジプト」を掲げ、外国の支配に抵抗した 1881〜1882 年の運動は?
ウラービー運動
イギリスが軍事力で鎮圧し、エジプトを事実上の保護国とした。
2. タンジマートとミドハト憲法
根拠: 学習指導要領 世界史探究-D-(2)-ア-(イ)
オスマン帝国は、西欧にならった制度をとり入れて中央集権の国家をつくり直そうとしました。
1839 年、ギュルハネ勅令で始まったオスマン帝国の西欧化の改革を何という?
タンジマート(恩恵改革)
スルタンのアブデュルメジト 1 世のもとで、行政・軍事・司法・教育などの制度を西欧式に改めた。
タンジマートが、宗教の違う臣民の扱いについて打ち出した原則は?
ムスリムと非ムスリムの法の前の平等
宗教の別を超えて、すべての臣民を「オスマン人」として一つにまとめようとした。
1876 年に発布されたミドハト憲法の意義は?
アジアで最初の憲法で、議会の開設を定めた
大宰相ミドハト=パシャが起草した。
ミドハト憲法を停止し、専制政治を行ったスルタンは?
アブデュルハミト 2 世
ロシア=トルコ戦争(1877〜1878 年)を理由に憲法を停止し、議会も閉鎖した。
1838 年にイギリスと結んだ通商条約は、オスマン帝国の経済にどんな影響を与えたか?
低い関税で外国製品が流れ込み、帝国は原料を輸出して工業製品を輸入する世界市場の一部に組み込まれた
国内の手工業は打撃を受け、のちに外国からの借款で財政難にも陥った。
3. 東方問題
根拠: 学習指導要領 世界史探究-D-(2)-ア-(イ)
オスマン帝国の弱体化につけこんで、ロシアは地中海への出口を求めて南下し、イギリスなどがそれを阻みました。バルカン半島では民族の独立が相次ぎます。
1853 年、聖地の管理権などをめぐってロシアとオスマン帝国の間で始まった戦争は?
クリミア戦争
イギリス・フランス・サルデーニャがオスマン帝国を助け、ロシアは敗れた。1856 年のパリ条約で黒海は中立化され、ロシアの南下は阻まれた。
ロシア=トルコ戦争のあと、1878 年のサン=ステファノ条約でロシアが実現しようとしたことは?
ロシアの保護下の大きなブルガリアをつくり、バルカン半島に勢力を広げること
イギリスとオーストリアが強く反発した。
1878 年のベルリン会議を主催し、列強の利害を調整したのは?
ビスマルク(ドイツ)
ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が認められ、ブルガリアは縮小された。オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を、イギリスはキプロス島の行政権を得た。
19 世紀のイランを支配し、ロシアとの戦争に敗れて不平等条約を結ばされた王朝は?
カージャール朝
1828 年のトルコマンチャーイ条約で南カフカスの領土を失い、ロシアに治外法権を認めた。