イスラーム世界の広がりと分裂
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」C (2) ア (ア) の「西アジア社会の動向とアフリカ・アジアへのイスラームの伝播」のうち、西アジア社会の動向を扱います。
アッバース朝のもとでバグダードが栄えたあと、10 世紀には各地に政権が分かれ、カリフが並び立ちます。やがて中央アジアから入ったトルコ人が西アジアの政治の主役になっていきます。
0. 何を押さえるか
アッバース朝のカリフは、10 世紀以降しだいに政治の実権を失い、宗教上の権威として残りました。実権を握ったのは、地方の王朝やトルコ人の軍人たちです。
| 王朝 | 成立 | 中心 | 宗派 | 押さえること |
|---|---|---|---|---|
| アッバース朝 | 750 年 | バグダード | スンナ派 | 最盛期はハールーン=アッラシード。のちカリフは名目化 |
| 後ウマイヤ朝 | 756 年 | コルドバ(イベリア半島) | スンナ派 | 10 世紀にカリフを名乗る |
| ファーティマ朝 | 909 年 | チュニジア → カイロ | シーア派 | 初めからカリフを名乗る。カイロを建設 |
| ブワイフ朝 | 932 年 | イラン → バグダード | シーア派 | 946 年にバグダード入城、大アミールとなる |
| セルジューク朝 | 1038 年 | イラン → バグダード | スンナ派 | 1055 年にバグダード入城、スルタンの称号 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 10 世紀には 3 人のカリフが並び立った(バグダードのアッバース朝、カイロのファーティマ朝、コルドバの後ウマイヤ朝)
- ブワイフ朝はシーア派、セルジューク朝はスンナ派。セルジューク朝はブワイフ朝を追い払い、スンナ派のカリフを保護する形をとった
- 「カリフ」は宗教上の権威、「スルタン」は政治・軍事の実権者の称号として使い分けられるようになった
1. アッバース朝の繁栄
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(2)-ア-(ア)
アッバース朝はティグリス川のほとりに新しい都バグダードを築きました。バグダードは陸と海の交易路が集まる大都市となり、学問の中心にもなりました。
アッバース朝の第 2 代カリフ、マンスールが建設を始めた円形の都は?
バグダード
ティグリス川のほとりにあり、ペルシア湾に通じる水運と、東西の陸路が交わる位置にあった。
アッバース朝の最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』にも登場する人物は?
ハールーン=アッラシード
8 世紀末から 9 世紀初めに在位し、バグダードは人口の多い国際都市として栄えた。
9 世紀のバグダードで、ギリシア語の哲学・医学・天文学の文献をアラビア語に訳す拠点となった施設は?
知恵の館(バイト=アルヒクマ)
カリフのマームーンのころに整えられた。翻訳された学問はのちにイスラーム世界の学問の土台となり、さらに西ヨーロッパにも伝わった。
アッバース朝のカリフたちが、9 世紀ごろから親衛隊として用いるようになったトルコ人などの奴隷出身の軍人を何という?
マムルーク
騎馬の戦士として重用されたが、やがて軍人が政治の実権を握るようになり、カリフの力は弱まった。
2. カリフが並び立つ(後ウマイヤ朝とファーティマ朝)
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(2)-ア-(ア)
アッバース朝の支配は、イスラーム世界の西の端までは届きませんでした。イベリア半島と北アフリカには、アッバース朝のカリフを認めない王朝が生まれます。
アッバース朝の成立後、ウマイヤ家の一族がイベリア半島に逃れて建てた王朝と、その都は?
後ウマイヤ朝、コルドバ
756 年に成立した。10 世紀のアブド=アッラフマーン 3 世のとき、みずからカリフを名乗った。
909 年に北アフリカのチュニジアで成立し、のちにエジプトを征服してカイロを建設した王朝は?
ファーティマ朝
シーア派の一派(イスマーイール派)の王朝で、成立のときからカリフを名乗り、アッバース朝のカリフの権威を認めなかった。
ファーティマ朝がカイロに建てたモスクで、のちにスンナ派の学問の中心となった学院は?
アズハル=モスク(アズハル学院)
はじめはシーア派の教えを広める場だったが、ファーティマ朝のあとスンナ派の教育機関として続いた。
3. ブワイフ朝とセルジューク朝
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(2)-ア-(ア)
10 世紀半ば、イラン系のブワイフ朝がバグダードに入り、カリフは政治の実権を失いました。11 世紀には中央アジアから来たトルコ人のセルジューク朝がこれに代わります。
946 年にバグダードに入城し、カリフから大アミールに任じられて政治の実権を握ったシーア派の王朝は?
ブワイフ朝
イラン系の軍事政権。これ以後、アッバース朝のカリフは宗教上の権威として残るだけになった。
軍人に土地からの徴税権を与え、その代わりに軍務を負わせる制度を何という?
イクター制
俸給を現金で払う代わりに徴税権を分け与えるしくみで、ブワイフ朝が始め、セルジューク朝が広く用いた。
セルジューク朝を建て、1055 年にバグダードに入城してカリフからスルタンの称号を受けた人物は?
トゥグリル=ベク
スンナ派のセルジューク朝はシーア派のブワイフ朝を追い払い、カリフを保護する者として支配の正統性を得た。
10 世紀の中央アジアで、トルコ人として初めてイスラームを受け入れた王朝と考えられているのは?
カラハン朝
イラン系のサーマーン朝を滅ぼした。中央アジアのトルコ化とイスラーム化はこの時期から進んだ。
4. セルジューク朝の支配と学問
根拠: 学習指導要領 世界史探究-C-(2)-ア-(ア)
セルジューク朝はイランの官僚を用いて国を治め、スンナ派の学問を保護しました。小アジアへの進出はビザンツ帝国を脅かし、のちの十字軍のきっかけとなります。
セルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルクが各地に建てた、スンナ派の学問を教える学院を何という?
ニザーミーヤ学院
学者と官僚を育て、シーア派に対抗してスンナ派の教えを広める役割を果たした。
1071 年、セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破り、小アジア(アナトリア)へ進出するきっかけとなった戦いは?
マンジケルトの戦い
これ以後、小アジアのトルコ化が進んだ。追い詰められたビザンツ皇帝がローマ教皇に救援を求めたことが、十字軍につながる。
セルジューク朝の時代の学者で、神秘主義(スーフィズム)を理論の面からスンナ派の信仰の中に位置づけた人物は?
ガザーリー
ニザーミーヤ学院で教えた。形式に傾いた法学に対し、神との合一を求める内面の信仰を重んじた。