みならいノート

歴史総合 2027年度版

日本の国際貢献と持続可能な開発

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このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。

学習指導要領「歴史総合」D (3) の内容の取扱いは、世界経済の安定に向けた取組を扱って日本が先進国としての国際的な地位を確立してきたことに気付かせ、
政府開発援助(ODA)や国際連合平和維持活動(PKO)、持続可能な開発のための取組などを扱って、日本が国際社会で重要な役割を担ってきたことを理解させるよう求めています。
このノートの前半(世界経済の安定と ODA)は D (3) ア (ア)、後半(PKO と持続可能な開発)は D (3) ア (イ) にあたります。
2026-09-27 に、ODA の歩みは外務省の「ODAの歩み」、第 1 回サミットは外務省の「ランブイエ・サミット」、
国際平和協力法と参加 5 原則は内閣府国際平和協力本部事務局の「活動と組織の概要」、
「持続可能な開発」の定義は環境省の資料(『我ら共有の未来』)、SDGs は国連広報センターの「2030アジェンダ」と突き合わせました。

0. 何を押さえるか

敗戦国として援助を受ける側から出発した日本は、1950 年代にアジアへの援助を始め、1960 年代に先進国の枠組みに加わり、
1989 年には ODA の総額で世界一になりました。1990 年代に入ると、湾岸戦争をきっかけに「お金だけでなく人の協力を」と問われ、
自衛隊を含む人員を国連の平和維持活動に送る法律を整えます。環境と開発を両立させる持続可能な開発は、1980 年代末に広まった考え方です。

分野 日本の取組 年
世界経済の安定 OECD 加盟 / 第 1 回サミットに参加 1964 / 1975
政府開発援助 コロンボ・プラン加盟で援助を開始 / ODA 総額で世界一 1954 / 1989
国際連合平和維持活動 国際平和協力法(PKO 協力法)制定、カンボジアへ派遣 1992
持続可能な開発 地球サミット、SDGs の採択 1992 / 2015

ODA の額や国ごとの順位は年ごとに動くので、カードにしているのは 1989 年に世界一になったという歴史上の事実だけです。

取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。

1. 世界経済の安定と日本

根拠: 学習指導要領 歴史総合-D-(3)-ア-(ア)

高度経済成長を経た日本は、先進国の経済協力の枠組みに加わり、石油危機のあとは先進国首脳の協調の場に最初から参加しました。
世界経済の安定を支える側に立つことが、先進国としての国際的な地位の確立でした。

1964 年に日本が加盟した、「先進国クラブ」とも呼ばれる経済協力の国際機関は?

経済協力開発機構(OECD)

同じ年に日本は IMF 8 条国にも移行し、為替の制限を原則としてやめた。東京オリンピックの年でもある。

1975 年の第 1 回サミット(主要国首脳会議)に、日本はどのような立場で参加したか?

アジアから唯一の参加国として

石油危機後の世界経済を先進 6 か国の首脳が話し合った。

2. 政府開発援助(ODA)

根拠: 学習指導要領 歴史総合-D-(3)-ア-(ア)

日本の援助は、アジア諸国への戦後の賠償と結びつきながら東南アジアから始まり、経済成長とともに額を増やしました。
1992 年に ODA 大綱を定め、2015 年にはこれを開発協力大綱に改めています。

政府や政府の機関が、開発途上国の経済・社会の発展や福祉の向上のために行う資金や技術の協力を何という?

政府開発援助(ODA)

贈与(無償資金協力・技術協力)や、低い金利で長く貸す円借款などがある。国際機関への拠出も含む。

日本が 1954 年に加盟し、ODA を始めるきっかけとなった、アジア・太平洋の国々の経済・社会の発展を支える国際的な枠組みは?

コロンボ・プラン

翌 1955 年から、研修員の受け入れや専門家の派遣といった技術協力を始めた。

日本の ODA の総額がアメリカを抜いて世界一になったのは何年か?

1989 年

1990 年代もほぼ世界一の援助国であり続けた。援助を受ける側から出発した国が、最大の出し手になった。

紛争・貧困・感染症などの脅威から一人ひとりの生命と尊厳を守ることを重んじ、日本が ODA の理念の柱としてかかげてきた考え方は?

人間の安全保障

国家の安全だけでなく、個々の人間に目を向ける考え方。2015 年の開発協力大綱でも指導理念とされた。

3. 国際連合平和維持活動(PKO)

根拠: 学習指導要領 歴史総合-D-(3)-ア-(イ)

1991 年の湾岸戦争で、日本は多国籍軍に多額の資金を出しましたが、人を出さなかったことが国際社会で十分に評価されませんでした。
これを受けて、翌 1992 年に国連の平和維持活動に人員を送るための法律がつくられます。

紛争のあと、国連が関係国の同意を得て小規模の部隊や要員を送り、停戦の監視や選挙の支援などを行う活動を何という?

国際連合平和維持活動(PKO)

国連憲章に直接の規定はなく、冷戦期の実践から生まれた活動。冷戦後は選挙や行政の支援など任務が広がった。

湾岸戦争の停戦後の 1991 年、日本が自衛隊を派遣してペルシャ湾で行った活動は?

機雷の除去(掃海)

海上自衛隊の掃海艇を派遣した。自衛隊が国際貢献のために海外で活動した最初の例とされる。

1992 年 6 月に成立した、日本が国連の平和維持活動などに協力するための法律は?

国際平和協力法(PKO 協力法)

同じ年、この法律に基づいて国連カンボジア暫定機構(UNTAC)に自衛隊の部隊や文民警察などを送った。

PKO に参加するための「参加 5 原則」の第 1 は、紛争当事者の間で何が成立していることか?

停戦の合意

ほかに、受入れ国と紛争当事者の同意、中立の厳守、原則が満たされなくなったら撤収できること、武器の使用は必要最小限を基本とすること、がある。

4. 持続可能な開発のための取組

根拠: 学習指導要領 歴史総合-D-(3)-ア-(イ)

高度経済成長期の公害が示したように、開発は環境を壊すことがあります。一方で途上国にとっては開発が欠かせません。
この 2 つを両立させようとする考え方が持続可能な開発で、冷戦後の国際社会の共通の目標になりました。

1987 年、国連の「環境と開発に関する世界委員会」(ブルントラント委員会)が報告書で示した「持続可能な開発」の意味は?

将来の世代のニーズを損なうことなく、現在の世代のニーズを満たす開発

報告書の名は『我ら共有の未来(Our Common Future)』。委員会は日本の提案をもとに設けられた。

1992 年にブラジルのリオデジャネイロで開かれ、持続可能な開発をかかげて気候変動枠組条約などの署名が行われた国連の会議は?

国連環境開発会議(地球サミット)

1972 年のストックホルムの国連人間環境会議から 20 年目に開かれた。行動計画「アジェンダ 21」を採択した。

2015 年の国連サミットで採択された、2030 年までに達成をめざす 17 の目標を何という?

持続可能な開発目標(SDGs)

「2030 アジェンダ」の中心。2000 年のミレニアム開発目標(MDGs)を引き継ぎ、先進国も含むすべての国を対象とする。

このノートの 13 問を、暗記カードで復習できます

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答えを隠して出題し、忘れそうなころにもう一度出します。

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