平氏政権と治承・寿永の乱
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」B (1) ア (ア) に当たります。朝廷の争いを武士が決着させた保元・平治の乱から、平氏政権の成立と滅亡までを、武士の政治進出の流れとして押さえます。
0. 何を押さえるか
朝廷内の争いを武力で決着させたことで、武士は政治の表舞台に出ました。平清盛は貴族の頂点に立ちましたが、
その政権は天皇の外戚となるなど貴族的な面を強く持ち、反発を受けて治承・寿永の乱(1180〜1185 年)で滅びます。
| 保元の乱(1156 年) | 平治の乱(1159 年) | |
|---|---|---|
| 対立の中心 | 崇徳上皇 対 後白河天皇 | 藤原通憲(信西) 対 藤原信頼 |
| 摂関家 | 藤原頼長(上皇方)と藤原忠通(天皇方)の兄弟が対立 | ― |
| 勝った側の武士 | 平清盛・源義朝(天皇方) | 平清盛 |
| 結果 | 崇徳上皇は讃岐へ流される | 源義朝は敗死し、子の頼朝は伊豆へ流される |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 保元の乱では清盛と義朝は同じ側(天皇方)で勝った。平治の乱で両者が敵味方に分かれた
- 平氏政権は武士の政権だが、天皇の外戚となり高い官職を独占するなど、摂関家に似たやり方をとった
- 治承・寿永の乱は源氏と平氏だけの戦いではない。各地の武士がそれぞれの利害から挙兵した内乱だった
1. 保元の乱と平治の乱
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(1)-ア-(ア)
天皇家と摂関家の内部の争いが、武士の力で決着されました。
1156 年、崇徳上皇と後白河天皇の対立に摂関家の兄弟の争いが重なって起きた戦いは?
保元の乱
天皇方が平清盛・源義朝らの武士を動員して勝ち、崇徳上皇は讃岐に流された。
1159 年、後白河上皇の近臣どうしの対立から起き、平清盛が源義朝を破った戦いは?
平治の乱
藤原信頼と組んだ源義朝が、藤原通憲(信西)を倒したが、清盛に敗れた。
平治の乱のあと、源義朝の子の源頼朝はどうなったか?
伊豆に流された
のちに 1180 年、この伊豆で頼朝が挙兵することになる。
保元・平治の乱が、朝廷の政治にとって持った意味は?
貴族内部の争いが武士の武力で決着するようになった
慈円は『愚管抄』で、保元の乱のあと「武者の世」になったと述べた。
2. 平清盛の政権と日宋貿易
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(1)-ア-(ア)
清盛は後白河上皇と結んで出世し、一族で高い官職と多くの知行国を得ました。
1167 年、平清盛が武士として初めて就いた最高の官職は?
太政大臣
一族も高い官職につき、多くの知行国と荘園を持った。
平清盛が娘の徳子を高倉天皇の后とし、生まれた皇子を即位させたことで得た立場は?
天皇の外戚(孫の安徳天皇を即位させた)
外戚として力をふるったのは摂関家と同じやり方で、平氏政権の貴族的な性格を示す。
平清盛が日宋貿易のために修築した摂津の港は?
大輪田泊
瀬戸内海の航路も整えた。宋から輸入された宋銭は、日本の貨幣経済を進めた。
平氏が厚く信仰し、一族が美しく飾った経典(平家納経)を納めた安芸の神社は?
厳島神社
瀬戸内海の航路の守り神として信仰された。
3. 平氏への反発と治承・寿永の乱
根拠: 学習指導要領 日本史探究-B-(1)-ア-(ア)
平氏の権力独占に、後白河法皇や貴族・寺社・地方の武士が反発を強めました。
1179 年、平清盛が後白河法皇にとった強い措置は?
法皇を幽閉して院政を止めた
多くの貴族の官職も奪い、政治の実権を握った。これが反平氏の動きを広げた。
1180 年、後白河法皇の皇子が、源頼政とともに平氏打倒を諸国の武士に呼びかけた命令は?
以仁王の令旨
以仁王と頼政はすぐ敗死したが、これを受けて源頼朝や源義仲が挙兵した。
1180 年、平清盛が一時的に都を移した先は?
福原(摂津。いまの神戸)
貴族や寺社の反対が強く、半年ほどで京都に戻った。
1183 年、北陸から攻め上り、平氏を都から追い落とした源氏の武将は?
源義仲(木曽義仲)
倶利伽羅峠の戦いで平氏を破った。のちに頼朝が送った軍に討たれた。
1185 年、平氏が滅んだ長門の戦いと、源氏方の中心となった武将は?
壇の浦の戦い、源義経
一の谷・屋島と平氏を追い、壇の浦で滅ぼした。安徳天皇もこの戦いで亡くなった。