大正デモクラシーと政党政治
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」D (3) ア (ア) の「政党政治」に当たる部分です。
大正時代には、藩閥や官僚が内閣を握る政治への批判が強まり、衆議院の多数党が内閣をつくる政党政治が定着していきました。
0. 何を押さえるか
大正期の政治は、2 度の護憲運動と、その間に成立した原敬の政党内閣を軸に並べると見通しがよくなります。
| 第一次護憲運動(1912〜1913 年) | 第二次護憲運動(1924 年) | |
|---|---|---|
| 倒された内閣 | 第 3 次桂太郎内閣 | 清浦奎吾内閣 |
| 中心の政党・人物 | 立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党の犬養毅 | 憲政会・立憲政友会・革新倶楽部(護憲三派) |
| 結果 | 桂内閣が退陣(大正政変) | 加藤高明の護憲三派内閣が成立 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 第一次護憲運動は民衆の運動で内閣を倒した、第二次護憲運動は総選挙の勝利で内閣を代えた
- 原敬内閣は普通選挙に慎重で、納税資格を 3 円以上に下げるにとどめた。普通選挙法は加藤高明内閣(1925 年)
- 普通選挙法と治安維持法は同じ 1925 年、同じ加藤高明内閣。選挙権を広げるのと同時に、共産主義などの運動を取り締まる法を整えた
1. 第一次護憲運動と大正政変
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ア)
明治の末は、桂太郎と西園寺公望が交互に内閣を担当する時代でした(桂園時代)。大正の初め、陸軍の要求をきっかけにこの均衡が崩れます。
1912 年、第 2 次西園寺公望内閣が倒れたきっかけは?
陸軍の 2 個師団増設の要求を拒み、陸軍大臣が単独で辞職して後任が得られなかったから
軍部大臣は現役の大将・中将に限られていたため、陸軍が大臣を出さなければ内閣は続けられなかった。
第 3 次桂太郎内閣の成立に反対し、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた運動は?
第一次護憲運動
立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が先頭に立ち、議会を取り巻く民衆の運動となった。
1913 年、護憲運動の高まりで桂内閣がわずか 50 日あまりで退陣したことを何という?
大正政変
民衆の運動が内閣を倒した初めての例とされる。桂は対抗して新党(のちの立憲同志会)を準備していた。
大正政変のあとの山本権兵衛内閣が、軍部大臣現役武官制をどう改めたか? 内閣はなぜ倒れたか?
予備役・後備役の大将・中将も大臣になれるようにした。海軍の汚職事件(シーメンス事件)で退陣した
軍の意向だけで内閣が倒されにくくする改正だった。
2. 民本主義と原敬の政党内閣
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ア)
大戦期には、政治を国民の意向に沿って行うべきだとする考えが広まりました。1918 年、米騒動で寺内正毅内閣が倒れると、初めての本格的な政党内閣が生まれます。
吉野作造が唱えた民本主義は、主権の所在と政治の目的をどう考えたか?
主権がどこにあるかは問わず、政治の目的を民衆の幸福におき、政策の決定に民衆の意向を反映させるべきだとした
天皇主権の憲法のもとで、普通選挙と政党内閣を求める理論的な支えとなった。
美濃部達吉の天皇機関説は、天皇をどう位置づけたか?
統治権は法人としての国家にあり、天皇はその最高の機関として憲法に従って統治権を行使する
議会や政党内閣の役割を重くみる考えにつながった。
1918 年に成立した原敬内閣が「本格的な政党内閣」と呼ばれる理由は?
首相が衆議院の第一党(立憲政友会)の総裁で、陸軍・海軍・外務以外の大臣を政友会の党員で固めたから
原は爵位を持たない衆議院議員の首相で、「平民宰相」と呼ばれた。
原敬内閣は選挙制度をどう変えたか?
選挙権の納税資格を直接国税 10 円以上から 3 円以上に下げ、小選挙区制を導入した
普通選挙の実現には慎重で、野党の普選の要求は退けた。
3. 第二次護憲運動と護憲三派内閣
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ア)
原敬が 1921 年に暗殺されたあと、政党の基盤を持たない内閣が続きました。貴族院を中心とする清浦奎吾内閣の成立に、政党は再び結集します。
第二次護憲運動(1924 年)で清浦奎吾内閣の打倒を目ざした護憲三派とは?
憲政会・立憲政友会・革新倶楽部
総選挙で護憲三派が大勝し、第一党の憲政会の総裁加藤高明が首相となった。
1925 年の普通選挙法で、選挙権はどう変わったか?
納税額による制限をなくし、満 25 歳以上の男性すべてに選挙権を与えた
有権者は大きく増えたが、女性の参政権は認められなかった。
1925 年に制定された治安維持法は、どのような結社を取り締まる法律か?
国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社
同じ年の日ソ国交の樹立と普通選挙の実施を前に、共産主義の運動が広がるのを防ぐねらいがあった。
4. 「憲政の常道」
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ア)
加藤高明内閣から、衆議院の多数党の党首が内閣をつくる慣行が続きました。天皇の諮問に答えて首相を推したのは、最後の元老の西園寺公望です。
「憲政の常道」とは、どのような慣行を指すか?
衆議院で多数を占める政党の党首が内閣を組織し、内閣が倒れたら野党第一党の党首が次の内閣をつくる慣行
法律で定められたものではなく、元老の推薦によって保たれた慣行だった。
加藤高明内閣が、大正デモクラシーの流れのなかで「普選」を実現できたのはなぜか?
総選挙で勝った護憲三派が衆議院の多数を背景に内閣をつくり、普選の実施を公約していたから
原敬内閣のときとは違い、政府与党そのものが普選を掲げていた。