協調外交と満州事変
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「日本史探究」D (3) ア (ウ) のうち、恐慌と国際関係、軍部の台頭と対外政策の推移を扱います。
1920 年代の日本は、ワシントン体制のもとで欧米と協調する外交をとっていました。それが中国への強硬策に揺れ、1931 年の満州事変で大きく崩れます。
0. 何を押さえるか
1920 年代の対外政策は、外相の名で 2 つに分けて整理します。
| 幣原外交(協調外交) | 田中外交(積極外交) | |
|---|---|---|
| 中心人物 | 幣原喜重郎外相 | 田中義一首相(外相を兼任) |
| 時期 | 1924〜1927、1929〜1931 | 1927〜1929 |
| 欧米に対して | ワシントン体制を守って協調 | 協調(不戦条約に調印) |
| 中国に対して | 内政不干渉 | 山東出兵など武力で権益を守る |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 田中外交も欧米とは協調した。強硬だったのは中国に対してである
- 張作霖爆殺事件(1928)と柳条湖事件(1931)はどちらも関東軍が起こしたが、満州事変の始まりは柳条湖事件
- 満州国の承認(日満議定書)は 1932 年の斎藤実内閣、国際連盟からの脱退通告は 1933 年
1. ワシントン体制と幣原外交
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
第一次世界大戦後の東アジアと太平洋の国際関係は、1921〜1922 年のワシントン会議で決まった枠組み(ワシントン体制)に沿って動いていました。
加藤高明内閣などで外相を務め、欧米との協調と中国への内政不干渉を方針とした人物は?
幣原喜重郎
中国の統一を武力で妨げない一方、経済面での日本の権益は条約を通じて守ろうとした。この外交を協調外交(幣原外交)という。
1930 年、浜口雄幸内閣が調印したロンドン海軍軍縮条約で取り決めたのは、どの艦の保有量か?
補助艦(巡洋艦など)
主力艦の保有量はすでにワシントン海軍軍縮条約で決まっていた。日本の要求は大筋で認められたが、大型巡洋艦の比率は求めた 7 割に届かなかった。
ロンドン海軍軍縮条約の調印に対し、野党の立憲政友会や海軍軍令部、右翼が政府を攻撃した理由は?
兵力量を軍令部の同意なしに決めたのは統帥権の干犯だ
統帥権は天皇が持つ軍の指揮権で、内閣は口を出せないとする主張だった。浜口首相は 1930 年に東京駅で狙撃され、翌年死去した。
2. 田中外交
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
中国では蔣介石の国民革命軍が、国内の統一をめざして北へ進んでいました(北伐)。田中義一内閣は、満州と華北の権益を守るため強硬な対外政策をとります。
北伐に対し、日本人居留民の保護を理由に田中義一内閣が 1927〜1928 年にくり返し行った出兵は?
山東出兵
1928 年の出兵では、済南で国民革命軍と衝突した(済南事件)。
1928 年、満州の軍閥の張作霖を、奉天郊外で列車ごと爆破して殺害したのは?
関東軍(の一部の将校)
満州を直接支配するきっかけにしようとしたが、張作霖の子の張学良は国民政府に合流し、かえって満州の統一が進んだ。
張作霖爆殺事件のあと、田中義一内閣が総辞職したのはなぜか?
事件の責任者の処分をあいまいにし、昭和天皇の不信を買ったから
真相は国民に公表されず、「満州某重大事件」と呼ばれた。
1928 年、田中義一内閣がパリで調印した、国際紛争の解決に戦争を用いないことを約束した条約は?
不戦条約
田中外交は中国に強硬だったが、欧米との協調の枠組みには加わっていた。
3. 満州事変
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
中国で国権回復運動が高まり、満州の権益が脅かされると、軍や右翼は幣原外交を「軟弱外交」と非難しました。関東軍は自らの手で満州を占領する計画を進めます。
1931 年 9 月 18 日、奉天郊外で南満州鉄道の線路が爆破された事件は?
柳条湖事件
関東軍が自ら爆破しながら中国軍のしわざとし、軍事行動を始めた。満州事変の始まりである。
柳条湖事件のあと、第 2 次若槻礼次郎内閣はどんな方針をとったか? その結果は?
不拡大方針をとったが、関東軍は戦線を広げ、内閣は収拾できず総辞職した
世論やマスメディアは軍の行動を支持した。政府が軍を抑えられないことがはっきりした。
1932 年、関東軍が満州に建国させた満州国で、執政(のち皇帝)に立てられた人物は?
溥儀(清朝最後の皇帝)
形の上では独立国だったが、実権は関東軍と日本人官僚が握っていた。
4. 満州国と国際連盟脱退
根拠: 学習指導要領 日本史探究-D-(3)-ア-(ウ)
中国は満州事変を国際連盟に訴えました。国際関係のなかで日本は孤立していきます。
1932 年、斎藤実内閣が満州国を承認するために結んだ取り決めは?
日満議定書
満州での日本の権益の確認と、日本軍の駐留を認めさせた。犬養毅内閣は満州国の承認に慎重だったが、五・一五事件で倒れていた。
満州事変を調べるため国際連盟が派遣した調査団と、その報告の要点は?
リットン調査団。日本の軍事行動は自衛とは認められず、満州国も自発的な独立ではないとした
一方で満州での日本の権益には一定の配慮を示していた。
1933 年、国際連盟の総会が満州国を認めない勧告を採択すると、日本はどうしたか?
国際連盟からの脱退を通告した
日本の全権は松岡洋右。同じ年、中国と塘沽停戦協定を結び、満州事変は一応の終わりを迎えた。