戦間期のアジア・アフリカの民族運動
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」D (3) ア (イ) の「アジア・アフリカの動向とナショナリズム」に当たります。思考の面では「アジア・アフリカのナショナリズムの性格」を考えることが求められています。
民族自決の原則とロシア革命に励まされながら、戦後の講和で期待を裏切られたアジア・アフリカの人々が、どのように運動を広げたかを押さえます。
0. 何を押さえるか
1919 年は、東アジア・南アジアで大きな民族運動が一斉に起きた年です。運動の相手と方法の違いを整理します。
| 地域 | 運動・出来事 | 相手 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 朝鮮 | 三・一独立運動(1919) | 日本の植民地支配 | 独立宣言を読み上げ「独立万歳」を叫ぶ。日本は統治を「文化政治」に改めた |
| 中国 | 五・四運動(1919) | 日本の山東権益とそれを認めた講和会議 | 学生から労働者・商人へ広がり、中国はヴェルサイユ条約の調印を拒否 |
| インド | 非暴力・不服従運動(1919〜) | イギリスのローラット法と約束違反 | ガンディーが指導。民衆を広く巻き込んだ |
| トルコ | 祖国解放戦争とトルコ共和国(1923) | 連合国のセーヴル条約 | ムスタファ=ケマルが条約を改めさせ、政教分離の近代化へ |
| アラブ地域 | 委任統治への抵抗 | イギリス・フランス | 大戦中の矛盾する約束が火種を残した |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 三・一独立運動は朝鮮(日本の支配への抵抗)、五・四運動は中国(山東問題への抗議)。どちらも 1919 年
- トルコはセーヴル条約を破棄させ、ローザンヌ条約で新たな国境と主権を得た
- フセイン・マクマホン協定はアラブ人に、バルフォア宣言はユダヤ人に、サイクス・ピコ協定は英仏露の間で結ばれた約束。互いに矛盾していた
1. 朝鮮と中国の民族運動
根拠: 学習指導要領 世界史探究-D-(3)-ア-(イ)
大戦中、日本は中国に二十一か条の要求を突きつけ、パリ講和会議は旧ドイツの山東権益を日本が引き継ぐことを認めました。
民族自決への期待が裏切られたことが、東アジアの運動に火をつけました。
1919 年 3 月 1 日、朝鮮で独立宣言の発表をきっかけに全土に広がった運動は?
三・一独立運動
日本は武力で鎮圧したが、その後は武断政治から「文化政治」へ統治の方針を改めた。同じ年、上海で大韓民国臨時政府がつくられた。
1919 年 5 月 4 日、北京の学生が始めた五・四運動は何に抗議したものか?
パリ講和会議が、山東省の旧ドイツ権益の中国への返還を認めなかったこと(二十一か条の要求の取り消しも拒まれた)
運動は全国に広がり、中国代表はヴェルサイユ条約の調印を拒んだ。
雑誌『新青年』を刊行し、「民主と科学」を掲げて新文化運動を進めた人物は?
陳独秀
胡適は口語による文学(白話文学)を提唱し、魯迅は『狂人日記』『阿Q正伝』で旧い社会を批判した。陳独秀はのちに中国共産党の結成に加わる。
1924 年、孫文の中国国民党と中国共産党が手を結んだことを何という?
第 1 次国共合作
ソ連の支援を受け、共産党員が個人の資格で国民党に入る形をとった。孫文の死後、蔣介石が北伐を始め、1927 年の上海クーデタで合作は崩れた。1928 年に北伐は完了し、国民政府が中国をほぼ統一した。
2. インドの民族運動
根拠: 学習指導要領 世界史探究-D-(3)-ア-(イ)
大戦中に戦後の自治を約束されていたインドでは、戦後にわずかな自治しか認められず、しかも民族運動を弾圧する法律が出されたことで、反英運動が高まりました。
1919 年、イギリスがインドで制定した、令状なしの逮捕や裁判なしの投獄を認めた法律は?
ローラット法
同じ年のインド統治法による自治も限られたものだった。この法律への抗議集会に軍が発砲し、多数の死者が出た(アムリットサール事件)。
ガンディーが指導した反英運動の方法は?
非暴力・不服従(サティヤーグラハ)
暴力を使わずに法律や命令に従わないことで抵抗した。知識人だけでなく農民など民衆を広く運動に巻き込んだ。
1929 年、インド国民会議のラホール大会で、ネルーらが掲げた目標は?
プールナ=スワラージ(完全な独立)
それまでの「自治」から、イギリスからの完全独立へと目標を進めた。
3. トルコ共和国の成立
根拠: 学習指導要領 世界史探究-D-(3)-ア-(イ)
敗戦国となったオスマン帝国は、1920 年のセーヴル条約で領土を大きく削られ、ギリシア軍の侵攻も受けました。これに抵抗したのがムスタファ=ケマルです。
連合国とのセーヴル条約に代わって、1923 年にトルコが結んだ条約は? その成果は?
ローザンヌ条約。新しい国境を認めさせ、治外法権の撤廃と関税自主権の回復を実現した
ムスタファ=ケマルはアンカラに政府をつくり、ギリシア軍を撃退していた。1922 年にはスルタン制を廃止し、オスマン帝国は滅んだ。
1923 年にトルコ共和国を建国したムスタファ=ケマルが進めた近代化の政策を挙げよ。
カリフ制の廃止(政教分離)、アラビア文字をやめてローマ字を採用(文字改革)、女性参政権の実現
首都はアンカラ。のちに「アタテュルク(トルコの父)」の称号を贈られた。
4. アラブ地域とアフリカ
根拠: 学習指導要領 世界史探究-D-(3)-ア-(イ)
大戦中、イギリスはオスマン帝国と戦うために、アラブ人・ユダヤ人・同盟国のそれぞれに異なる約束をしました。戦後のアラブ地域はイギリス・フランスの委任統治のもとに置かれます。
1915 年、イギリスがアラブ人にオスマン帝国への反乱と引きかえに独立を約束した取り決めは?
フセイン・マクマホン協定
一方で 1916 年には、イギリス・フランス・ロシアがオスマン帝国の領土の分割を秘密に取り決めた(サイクス・ピコ協定)。
1917 年、イギリスがパレスチナにユダヤ人の「民族的郷土」をつくることを支持した宣言は?
バルフォア宣言
フセイン・マクマホン協定と矛盾し、のちのパレスチナ問題の原因の 1 つになった。
第一次世界大戦後、イギリスとフランスがそれぞれ委任統治したアラブ地域は?
イギリスはイラク・トランスヨルダン・パレスチナ、フランスはシリア・レバノン
エジプトは 1922 年にイギリスから独立したが、スエズ運河の防衛権などはイギリスが握り続けた。
1919 年、アフリカ系の人々の解放と地位の向上を訴えてパリで開かれた会議は?
パン=アフリカ会議
アメリカの黒人の運動家デュボイスらが中心となった。アフリカの多くはなお植民地のままで、本格的な独立は第二次世界大戦後になる。