冷戦後の地域紛争と紛争解決
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」E (1) ア (ア) の「冷戦の終結と地域紛争の頻発」と、それらを基に理解する「紛争解決の取組と課題」。思考力の事項は、冷戦下の紛争解決と冷戦後の紛争解決との共通点と相違点を考えるよう求めています。
ここでは 1990 年から 2000 年代初めまでの、定まった事実を中心に押さえます。
0. 何を押さえるか
冷戦が終わると、米ソの対立で抑えられていた民族・宗教の対立が表に出て、地域紛争が相次ぎました。一方で、安保理が一致して動ける場面も増え、国連の平和維持活動(PKO)が広がりました。
| 紛争・できごと | 年 | 押さえどころ |
|---|---|---|
| 湾岸戦争 | 1991 | イラクのクウェート侵攻に、安保理の決議を受けた多国籍軍が反撃 |
| ボスニア=ヘルツェゴヴィナ内戦 | 1992〜1995 | 旧ユーゴスラヴィアの民族対立。デイトン合意で停戦 |
| パレスチナ暫定自治協定 | 1993 | イスラエルと PLO が相互に承認 |
| コソヴォ紛争 | 1999 | 安保理の決議なしに NATO がユーゴスラヴィアを空爆 |
| 同時多発テロ | 2001 | アメリカが「テロとの戦い」を掲げてアフガニスタンを攻撃 |
| イラク戦争 | 2003 | アメリカ・イギリスがイラクを攻撃し、フセイン政権が崩壊 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- 湾岸戦争は安保理の決議に基づく武力行使、コソヴォ空爆やイラク戦争は安保理の明確な承認なしに行われた
- パレスチナ暫定自治協定(1993 年)で和平が完成したのではない。その後も交渉は行き詰まり、衝突が繰り返された
- PKO は国連憲章に直接の規定がなく、紛争当事者の同意を得て停戦監視などを行う活動として慣行で生まれた
1. 湾岸戦争とユーゴスラヴィア紛争
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
冷戦後の最初の大きな戦争は、中東の湾岸戦争でした。ヨーロッパでも、多民族国家ユーゴスラヴィアの解体にともなって激しい内戦が起きます。
1990 年、クウェートに侵攻して併合を宣言したイラクの指導者は?
サダム=フセイン
翌 1991 年、安保理の決議を受けたアメリカ中心の多国籍軍がイラク軍を攻撃し、クウェートから撤退させた(湾岸戦争)。
1991 年、ユーゴスラヴィア連邦から最初に独立を宣言した 2 つの共和国は?
スロヴェニアとクロアチア
指導者ティトーの死後、連邦を束ねる力が弱まり、民族ごとの独立の動きが強まった。
1992 年から続いたボスニア=ヘルツェゴヴィナの内戦は、どのような対立だったか?
セルビア人・クロアチア人・ムスリム(ボスニア人)の 3 つの勢力の対立
同じ地域に住む人々が民族や宗教で分かれて戦った。1995 年、NATO の空爆を経てデイトン合意で停戦した。
1999 年のコソヴォ紛争で、NATO がとった行動は?
安保理の決議なしにユーゴスラヴィア(セルビア)を空爆した
アルバニア系住民への迫害を止めるためとされたが、国連の承認を得ない武力行使として議論を呼んだ。
2. パレスチナ問題
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
イスラエルの建国と中東戦争は前のフォルダで扱いました。ここでは、占領地の住民の抵抗から交渉へと進んだ流れを押さえます。
1987 年からイスラエルの占領地で広がった、パレスチナ人の民衆による抵抗運動は?
インティファーダ
石を投げるなどの抵抗が国際的な注目を集め、和平交渉を促すきっかけになった。
1993 年、イスラエルのラビン首相と PLO のアラファト議長が調印した協定は?
パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)
ノルウェーの仲介でまとまり、イスラエルと PLO が互いを承認した。ガザ地区とヨルダン川西岸の一部で暫定自治が始まった。
パレスチナ暫定自治協定のあと、和平の歩みを揺るがした 1995 年のできごとは?
ラビン首相がイスラエルの和平反対派に暗殺された
その後、和平交渉は行き詰まり、2000 年には再びインティファーダが起きた。
3. 同時多発テロと対テロ戦争
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
冷戦後の紛争は、国家どうしの戦争だけでなく、国家ではない武装組織が起こすテロにも広がりました。
2001 年 9 月 11 日のアメリカ同時多発テロを実行したとされる組織は?
アル=カーイダ
指導者はビン=ラーディン。アメリカはこの組織をかくまったとしてアフガニスタンを攻撃し、ターリバーン政権を倒した。
2003 年、アメリカ・イギリスがイラクを攻撃した際に掲げた理由と、その結果は?
大量破壊兵器を保有しているとし、攻撃によってフセイン政権が崩壊した
大量破壊兵器は見つからなかった。安保理の明確な承認を得ないまま開戦し、国際社会の意見は分かれた。
4. 紛争解決の取組
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
紛争解決の担い手は国家や国連だけではありません。NGO(非政府組織)など多様な行動主体も、条約づくりや和平に関わっています。
国連の平和維持活動(PKO)とは、どのような活動か?
紛争当事者の同意のもと、停戦の監視や選挙の支援などを行う活動
国連憲章が定める軍事的強制措置とは違い、中立の立場で紛争の再発を防ぐことをねらう。
1992 年、日本が PKO 協力法に基づいて初めて自衛隊を派遣した国は?
カンボジア
1991 年のパリ和平協定で内戦が終わり、国連の暫定統治機構(UNTAC)が選挙の実施を支えた。
1997 年に調印された対人地雷全面禁止条約で、成立を後押ししたことで知られる担い手は?
NGO(地雷禁止国際キャンペーン)
各国の NGO の連合が政府に働きかけ、同じ年のノーベル平和賞を受けた。国家以外の担い手が条約づくりを動かした例である。
冷戦下と比べて、冷戦後に国連の PKO が増えたのはなぜか?
米ソの対立で止まりがちだった安保理が、一致して決議できる場面が増えたから
ただし、ルワンダの内戦(1994 年)での大量虐殺を止められなかったように、限界も明らかになった。犠牲者の数は数十万人から 100 万人近くまで推計に幅がある。