平和共存と多極化
このノートの問いがそのまま復習カードになり、忘れかけたころに出題されます。
学習指導要領「世界史探究」E (1) ア (ア) の「平和共存と多極化の進展」。1950 年代半ばから米ソの対立がゆるむ一方、中ソ対立やヨーロッパの統合によって、世界が米ソ 2 つの極だけでは動かなくなっていく流れを押さえます。
0. 何を押さえるか
平和共存は米ソが直接の衝突を避けて並び立つこと、多極化は米ソ以外の中国・西ヨーロッパ・日本などが独自の力を持つようになることです。
| 年 | 東側 | 西側 | 大国間の関係・核軍縮 |
|---|---|---|---|
| 1955 | ジュネーヴ 4 巨頭会談 | ||
| 1956 | スターリン批判、ハンガリー事件 | ||
| 1958 | ヨーロッパ経済共同体(EEC)発足 | ||
| 1963 | 部分的核実験禁止条約 | ||
| 1966 | フランスが NATO の軍事機構から脱退 | ||
| 1967 | ヨーロッパ共同体(EC)発足 | ||
| 1968 | プラハの春 | 核拡散防止条約 | |
| 1969 | 中ソ国境で武力衝突 | ||
| 1972 | 第 1 次戦略兵器制限交渉(SALT I)の合意、ニクソン訪中 |
取り違えやすい分かれ目は次の 3 つ。
- スターリン批判(1956 年)は緊張緩和のきっかけであると同時に、東欧の動揺と中ソ対立の火種にもなった
- 部分的核実験禁止条約は地下核実験を禁じていない。大気圏内・宇宙空間・水中の実験だけを禁じた
- 核拡散防止条約は、核保有国をそれ以上増やさないための条約。すでに保有している国の核兵器を減らす条約ではない
1. 雪どけと平和共存
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
1953 年にスターリンが死去すると、ソ連は西側との緊張をやわらげる方向に転じました。この動きは「雪どけ」と呼ばれます。
1956 年、ソ連共産党第 20 回大会でスターリン批判を行い、資本主義国との平和共存を唱えた指導者は?
フルシチョフ
個人崇拝や大量粛清を批判した。同じ年、東側の情報交換機関だったコミンフォルムも解散した。
1956 年、ハンガリーで起きた自由化とワルシャワ条約機構からの脱退を求める動きに、ソ連はどう対応したか?
軍隊を送って鎮圧した(ハンガリー事件)
首相ナジ=イムレは処刑された。同じ年にはポーランドのポズナニでも民衆の暴動が起きた。
1968 年、チェコスロヴァキアで進んだ民主化の動き「プラハの春」は、どうなったか?
ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が介入して押しつぶした
中心となったのは共産党第一書記のドプチェク。平和共存のもとでも、ソ連は東欧の離反を許さなかった。
2. 中ソ対立と米中接近
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
スターリン批判と平和共存路線に中国の毛沢東は反発し、社会主義陣営の中で中ソが対立しました。この対立を利用して、アメリカは中国に接近します。
中ソ対立が深まるなか、ソ連が 1960 年に中国に対してとった措置は?
中国に派遣していた技術者を引き揚げた
前年には核開発の協力をやめていた。1969 年には国境の珍宝島(ダマンスキー島)で両国軍が衝突した。
1971 年、国際連合の中国代表権はどう変わったか?
中華民国(台湾)に代わって中華人民共和国が代表権を得た
翌 1972 年にニクソン大統領が訪中し、日本も田中角栄首相のもとで日中国交正常化を果たした。
アメリカと中華人民共和国が正式に国交を結んだのは何年か?
1979 年
ニクソン訪中(1972 年)で関係改善に踏み出してから、国交正常化までに 7 年かかった。
3. 西ヨーロッパの統合と自立
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
西ヨーロッパは経済の復興とともに統合を進め、アメリカから自立した動きも見せるようになりました。
フランスのシューマン外相の提案をもとに、1952 年に発足したヨーロッパ統合の出発点となる組織は?
ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)
フランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス 3 国の 6 か国で、石炭と鉄鋼を共同で管理した。
ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)の設立を定めた、1957 年の条約は?
ローマ条約
1958 年に発足した。1967 年に ECSC と合わせてヨーロッパ共同体(EC)となり、1973 年にはイギリスなどが加わった(拡大 EC)。
ド=ゴール大統領のもとで、フランスがアメリカから距離を置いた外交の例を挙げると?
核兵器の保有、中華人民共和国の承認(1964 年)、NATO の軍事機構からの脱退(1966 年)
アメリカ中心の西側陣営の中で独自の立場をとったことは、多極化の典型例とされる。
西ドイツのブラント首相が進めた、ソ連・東欧諸国との関係改善の外交を何という?
東方外交
1972 年に東西ドイツ基本条約を結び、翌 1973 年には東西ドイツがそろって国際連合に加盟した。
4. 核軍縮の条約
根拠: 学習指導要領 世界史探究-E-(1)-ア-(ア)
キューバ危機のあと、米ソは核兵器の開発や配備に歯止めをかける条約を結ぶようになりました。
1963 年、アメリカ・イギリス・ソ連が結んだ、大気圏内・宇宙空間・水中での核実験を禁止する条約は?
部分的核実験禁止条約
地下での核実験は禁止されなかった。すでに核実験を行っていたフランスや、開発中の中国は参加しなかった。
1968 年に調印された核拡散防止条約(NPT)は、何を目的とするか?
核兵器を持つ国がそれ以上増えるのを防ぐこと
保有を認められたのは当時すでに保有していた 5 か国で、それ以外の国の保有を禁じた。
1972 年に米ソが合意した、戦略核兵器の数に上限を設ける取り決めは?
第 1 次戦略兵器制限交渉(SALT I)
数を減らすのではなく、増やす上限を決めたもの。削減に進むのは冷戦末期からになる。